律法は新約時代においても指導書として不変の権威を持つ



こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。
肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。(ローマ8・1-5)

いのちの御霊の原理によって、「律法を指導書とする必要はなくなった」と説く人々がいる。

つまり、聖霊によって歩めば「律法の要求が全うされる」のであるから、律法を指導書として持つ必要はなく、自然に律法を守れるようになるのだと。

これは、いくつかの箇所で反駁できる。

パウロは、律法を指導書として引用している。

教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法も言うように、服従しなさい。(1コリント14・34)

律法は新約時代において確立された。

それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。(ローマ3・31)

確立されたものが「指導書とならない」わけがない。

律法を表すヘブル語トーラーは指導書(instruction)という意味である。
http://en.wikipedia.org/wiki/Torah

指導書が確立されたという場合、その指導書に従わなければならないというのは当然のことである。

イエスは、「わたしは律法…を廃棄するために来たのではない。…天地が滅びない限り、律法の一点一画たりとも地に落ちない」と言われた。

律法は、不変の権威である。

だから、それを破るように教えることはできない。

だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。(マタイ5・19)

律法は、指導書としての権威を失っておらず、われわれは、それをガイドラインとして守る必要がある。

「いのちの御霊の原理」は、律法の指導書としての権威を損なわない。

 

 

2013年5月13日



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