「聖霊のバプテスマ」と「火のバプテスマ」



私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。(マタイ3・11)

1.

火のバプテスマとは何か。

これに続く箇所を見ると、「裁き」を意味するとわかる。

手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。(マタイ3・12)

倉に収められる麦―救われる人

火で焼き尽くされる麦―滅びる人

という関係がある。

イエスは「聖霊と火とのバプテスマを授ける」方であるとは、それゆえ、救われる人には聖霊を与え、滅びる人には火を与える方である、という意味である。

聖霊は、頭金である。

聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。(エペ1・14)

ここで「保証」と訳されている言葉arrabonは「手付金(保証のために前もって部分的に提供されるお金)」である。

つまり、われわれに聖霊が与えられているのは、御国を受け継ぐことを保証する「手付金」である。

それゆえ、クリスチャンであって、なおかつ、聖霊がうちにお住まいになっていない者は一人いない。

もし聖霊が内住されていないならば、その人は救われているとは言えない。

聖霊は、聖書の内容を説き明かしてくださるので、必ず、聖書的な考えを理解することができるはずである。

それゆえ、本来、正しい教えがあれば、クリスチャンの間には一致が生まれるはずである。

一致がなければ、それは、同じ霊を受けていないことを示す。

・・・キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、また離れているにしても、私はあなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており、(ピリピ1・27)

イエスがクリスチャンに手付金として「一つの霊」を与えてくださるのに対して、滅びる人には手付金として「火」をお与えになる。

滅びる人は、この地上において地獄の前味を味わう。

それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。
それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。
こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、
同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。(ローマ1・24-27)

「神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えた」結果は「男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なう」ことである。

同性愛は、「恥ずべき情欲に引き渡され」た結果起こる行為であり、地獄の前味である。

それは永遠の地獄の業火の「手付金」として与えられた「裁きの火」である。

執拗に悔い改めを拒み、偶像礼拝に進み続けるならば、同性愛という裁きに遭う。

2.

イエスが来られたのは、それまで区別が曖昧で、一つに見えていた「穀物」を、「実」と「殻」に分けるためである。

実は倉に収められ、殻は火にくべられる。

福音が伝えられ、聖書の真理が明らかにされると、それまで曖昧だった人々の本質が明らかになる。

クリスチャンであると思われていた人がそうではなく、悪魔に属する人であったと判明する。

逆にノンクリスチャンであると思われていた人が、神に属する人であったと判明する。

イエスは「聖霊のバプテスマ」と「火のバプテスマ」によって、これらの区別を鮮明にされるのである。

 

 

2018年4月2日



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