最終的に人々は聖書的キリスト教を選択するだろう2
1.
「神を信じる人は弱い」という人がいるが、現実認識が間違っている。
人間は、この広大な宇宙の中で、地球というごく限られた環境の中でしか生存できない。
バンアレン帯がなければ、放射線でやられてしまう。
空気がなければ生きていけない。
温度がプラスマイナス50度を超えたら全員死ぬ。
われわれは「神がお膳立てしてくれた環境の中でのみ」生きられる。
神の御心でなければ、100メートル先のコンビニにすら行けない。
一瞬一瞬、神の恩恵を受けながら生きているのが人間である。
「神を信じなくてもやっていける」というのは幻想。
これまでやってこれたのは「たまたま」である。
振り返ってみてほしい。
今の配偶者とどうやって出会ったのか。
それは偶然か。
様々な困難を乗り越える中で、超自然的な支援がなかったか。
素直になれば、奇跡の連続であったと悟るだろう。
2.
「たしかに神の存在は認めるが、聖書の神ではない」というだろうか。
聖書の神以外に、救いは提供できない。
なぜならば、罪を処理するには犠牲が必要だからだ。
部屋の掃除をしてゴミを絨毯の下に隠しても、いずれ処理せざるを得なくなる。
生ゴミをゴミ箱に入れてきつく蓋をしても、いずれ臭ってきて生活できなくなる。
「なかったことにしよう」と思っても、解決にはならない。
罪を犯して処理しないままに人生を終わることは、駐車場で車をぶつけて起きながら逃げ去るようなもの。
そんなことを繰り返していたら、いずれ発覚して多額の賠償金を払わされるのがオチ。
誰でも行ったことに責任を負っているので、それを正しく処理する以外には方法はない。
神は、人生で犯したすべての罪の責任をわれわれに負わせず、ご自身のひとり子に負わせられた。
イエスを信じるならば、神は「あなたは責任を果たした」とみなしてくださる。
これで堂々と死後の世界に行ける。
イエスを信じなければ、責任を残したまま神の法廷に出ることになる。
そして、判決を下され、自分自身が刑罰を負わなければならない。
聖書が教えるこの方法以外には解決はない。
他の宗教は、気休めにしかならない。
「なかったことにしよう」「責任なんてないのだ」「われわれの神は、人に責任を追及するような愛のない神ではない」「努力すれば責任を果たしたことになる」・・・
もし神が法の違反者に対して責任を追及しなければ、その神は「法を制定しておいて、その法が破られても、問題視しない混沌の神」である。
交通法規を破るドライバーがいても取り締まらない国があれば、交通法規はないも同然である。その国では、赤信号でも突っ込んでくる車が多いので、交通事故が頻発し、安心して運転できない。
人間の努力で、罪が解消したとしても、時間が足りない。
なぜならば、人間は善行をする際にも罪を犯すからである。
人間は、善行をすると「自分はなんて善人なのだろう」と思う。
人間の善行は「泥靴のまま部屋を掃除するようなもの」である。
掃除すればするほど、泥を落としていく。
法を制定された神は、罪を裁かざるをえない。
罪を裁かずに赦す方法は、イエス・キリストの十字架しかない。
まったく罪を犯さない神であるキリストが人となってわれわれの罪の責任を負ってくださった。
これ以外に、義と愛を調和させることは不可能なのである。
2018年7月29日
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