このまま非聖書的神学を受け入れるならば、滅亡は避けられない
神学校の授業で、模擬説教をした。
そこで私は「律法は人生のルートマップである」と語った。
すると担当教官が、「それはおかしい」と言った。
彼は神戸改革派神学校出身である。
おかしいというだけで、一向に理由を説明しなかった。
この教官の煮え切らない態度こそが、今の改革主義のあいまいな立場を物語っている。
改革派もディスペンセーショナリズムに汚染された。
ディスペンセーショナリズムでは、「律法はクリスチャンを支配しない」と教えられる。
なぜならば「今は恵みの時代で、律法の時代ではないから」。
ディスペンセーショナリズムでは、時代時代によって神の取扱いの方法が変わると説明する。
モーセの時代は律法の時代であり、恵みはなかった。
今は福音が伝えられ、恵みの時代になったので、クリスチャンは律法から解放されたので、律法に支配されないと。
時代を支配する原理は、互いに排他的であり、前の時代の支配原理が次の時代に混入することはないと教えるので、恵みの時代において律法はいかなる役にも立たない。
だから、「律法はロードマップである」と肯定的に述べた私は批判されたのだ。
しかし、伝統的な改革派、改革主義の立場は、律法の指導的効用を認めている。
であるから、この教官は、本来の改革派から見ても異端児である。
しかし、彼のような人はたくさんいる。
スコットランド長老教会は再建主義のセオノミーを否定した。
つまり、ディスペンセーショナリズムの支配力があまりにも強いため、それが改革主義にまで浸透したのである。
私がもといた教会は、いわゆる福音派であり、福音派は、マイルドカルヴァン主義である。
なぜマイルドになったかというと、ディスペンセーショナリズムの侵入を許したからである。
だから、「マイルド」ではなく「堕落した」というべきである。
福音派は堕落したカルヴァン主義である。
福音派は、ディスペンセーショナリズムに騙されて、正統的カルヴァン主義と矛盾する教理を取り入れ、聖書から離れていった。
教理的厳密さを捨てたツケは大きかった。
その後も、次々と異端が入った。
フラー神学校なる異端のルツボを指導的神学校と見るようになりこの傾向は加速した。
フラー神学校を通じてリベラリズムの相対主義が教会の中に入り、「教会が成長するためならば、手段は問わない」みたいな風潮にすらなった。
ディスペンセーショナリズムとフラー神学校のダブルパンチにより、教会はガタガタになった。
契約主義が捨てられた。
神の法を守るならば祝福され、破るならば呪われるという因果律が捨てられたので、無律法主義になった。
福音派も改革派もカリスマ派も、このまま非聖書的神学を受け入れ続けるならば、滅亡は避けられない。
教会指導者は、目を覚ましてほしい。
2014年10月4日
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