正しい道を選ぶことができるのは、ただひたすら神の恵みによる


クリスチャンにも段階がある。

神は選びによって、啓示のレベルを変えられる。

私は、特別な恵みによって、ヴァン・ティルと出会った。

彼は「人間理性は堕落しているので、信頼できない。聖書啓示を前提とすべきだ」と唱えた。

聖書(外的照明)を読みこなすには、聖霊の内的照明がなければならない。

ノンクリスチャンは、聖書を読んでも理解できない。聖霊が働くときにはじめて理解できる。

外的照明と内的照明がワンセットではじめて悟りが得られる。

神が選ばれた人には、次々と聖霊が聖書に隠されている真理を啓示される。

福音派というフリーメイソンによって騙されている集団から抜け出られるかどうかは、選ばれているかどうかによる。

選ばれている人は、欺しに気づいて抜け出すことができるが、選ばれていない人は、欺しの中にとどまる。

福音書には「そのとき弟子たちにはわからなかった」という箇所がある。


イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。

初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行なったことを、彼らは思い出した。

彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。

夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。(ヨハネ10・6、12・16、20・14、21・4)

人によって啓示の段階が異なるだけではなく、同じ人の中でも時期によって啓示の段階が異なることがある。

つまり、時が来ていないために、まだ真理が開かれていないということがある。

神は、私を、ヴァン・ティルから一歩前に進ませてくださった。

R・J・ラッシュドゥーニーとの出会いである。

ラッシュドゥーニーは、ヴァン・ティルの前提主義から「聖書法による統治」に目が開かれた。

ヴァン・ティルまで啓示される人は多いが、そこからラッシュドゥーニーにたどり着く人は少なかった。

私は、ラッシュドゥーニーと出会う前に、大学時代に「聖書法が鍵ではないか」と気づいていた。

十戒や律法について勉強したがよい参考書がなかった。

就職して神学校に入って2年目にアメリカに行き、長老派の教会で『聖書法綱要』と出会った。

自分が求めていたものがそこにあった。

神は、私を特別に恵んでくださり、この真理に行き着くことを許された。

後から振り返ると、すべてが神の敷かれたレールの上に乗っていたとわかる。

大学時代に、哲学史を勉強する機会が与えられた。

ゼミの宮川透教授から「今は哲学の死の時代である。ドイツ観念論によって作られた世界観は、共産主義諸国によって実験され、その実験が失敗したことが明らかになった。その次に来る新しい思想がない」と教えられた。

ヒューマニズムは、ソ連や中国の実験によって、欠陥思想であることが証明されている。

ちょうどそのころ、ヴァン・ティルの弁証論を知ったのである。

卒論は、ヴァン・ティルについて書いた。

ヴァン・ティルの徹底した聖書主義こそが解決であるとわかった。

しかし、単に認識論にとどまっていても無意味である。

具体的にこの世界を聖書的に統治するにはどうすべきか、ヴァン・ティルは指し示さなかった。

ヴァン・ティルに「聖書法についてはどうですか」と尋ねた人がいたが「わからない」と答えたという。

ヴァン・ティルには、そこまでの使命しか与えられていなかったのだろう。

ヴァン・ティルは、キリスト教版インマヌエル・カントだった。

カール・マルクスの役割は、ラッシュドゥーニーに与えられていた。

神学校の上級生は「ヴァン・ティルはわかるが、だから何?という感じだ」と言っていた。

つまり「『聖書を前提として思考せよ』というのはわかるが、具体的に世界をどう統治したらいいのかわからない」と。

彼は、ヴァン・ティルにとどまり、次にフラー神学校に進み、教会成長学を学んで、ヴァン・ティルから完全に離れた。

そして後に会うと「ヴァン・ティルから離れるのに苦労した」と言った。

彼は道を踏み間違えた。

なぜならば、教会成長学は「聖書を前提としない神学」だからである。

ヴァン・ティルからラッシュドゥーニーに進まなければ、意味がない。

「聖書法による世界統治」という考え方を身につけることに失敗すれば、当然のことながら「世俗思想の混入した神学による世界統治」になるからである。

教会成長学は、フリーメイソンのノーマン・ヴィンセント・ピールやピーター・F・ドラッカーの影響を濃厚に受けている。

つまり、ルシファーの思想に汚染された神学なのである。

ヴァン・ティルからラッシュドゥーニーに進むか、その他の神学に進むかの選択を迫られている人は、人生を無駄にするかどうかの岐路に立たされているのである。

ラッシュドゥーニーに進むならば「聖書啓示に忠実な道」を選択したことになり、人生は有意義になる。

教会成長学などの、その他の思想を選択したならば、人生を無駄にすることになる。

その人の努力は、ルシファーの王国を築くために利用される。

しかし、その選択も、神の選びである。

正しい道を選ぶことができるのは、ただひたすら神の恵みによる。

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。(ピリピ2・13)

私がこのような道に進むことができたのも、ただ神の恵みである。

われわれが、正しい道を歩み、神の国のために働くことができるのは、ただひたすらに神の恩恵による。

ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。(1コリント15・10)

聖書信仰から離れないでいられるのは、神の恵みが注がれているからである。

このような選びのゆえに、神に感謝する。

 

 

2017年8月3日



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