ひどいことが起きたのは、ひとえに自分が悪いことをしたため?


不幸なことに出会うのは、本人が普段から不幸を引き寄せるような言動をしているからという人がいる。

たしかにそういうことはある。

なぜならば、神はすべての人の行いを裁かれるからだ。

悪いことをしてそのままで済むはずはない。

神は人を公平に裁かれる。

しかし、何も特別悪いことをしていない人々に不幸が襲う場合がある。

イエス・キリストがその例である。

また、バプテスマのヨハネもそうだ。

預言者として活躍したのに、最後は首をはねられた。

ウリヤのように夫として、また、兵士として責任をちゃんとはたしていたのに、ダビデによって裏切られ、妻を奪われた上に、戦場で殺された。

なぜだろうか。

なぜ善人がひどい目にあうのか。

ヨブは、何も悪いことをしていなかったがサタンから総攻撃を受けた。

それは神の栄光を表すためであった。

神のしもべとして悪魔に対して忠実さを示すためであった。

しかし、同時に、ヨブにさらに高い次元の啓示を与えるためであった。

「善を行えばいいことが、悪を行えば悪いことが起きる」というレベルの信仰から、「神の主権によってよいことも悪いことも起きる」というレベルの信仰にアップするためであった。

われわれは、神に文句を言える立場ではない。

被造物である以上、神の決定に対しては「あなたのなさることはことごとく正しい」と無条件で告白できなければならない。

その神の絶対主権を認めることができるようになったら、信仰は本物になる。

「私は正しいことをいつもしてきたのに、こんなひどいことしか起きない。ひどい!」と言っている限り、まだまだヒヨコなのだ。

環境がどうあれ、自分に起きる境遇がどうあれ、神は絶対的に正しいと常に告白できるようになること。

そうすれば、イエス・キリストの模範に従っている人と認められるだろう。

イエス・キリストは正しいことしかなさらなかった。

それなのに、十字架につけられ、恥辱と苦痛を受けられた。

すべては、父なる神の命令を守るために。そして、われわれの罪をあがなうために。

完全な服従とは、「自分の正しさとは無関係な結果が自分に降りかかっても神に感謝し賛美する」ことである。

だから、

「ひどいことが起きたのは、ひとえにそのようなことを引き寄せるような言動をしてきたからだ」とは言えないのだ。

このような信仰は、ヨブの友人の信仰である。

ヨブ記全体がこのような信仰が間違いであることを示している。

 

 

2012年9月13日



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