現在はキリストの千年王国である


アウグスチヌスもカルヴァンも、黙示録20章の千年王国を教会時代と解釈した。

この立場は、20世紀初頭まで教会の主流の立場を取り続けてきた。

変化したのは、第一次世界大戦である。

巨大な破壊を目の前にして、人類の進歩に対する大きな疑問がおき始めた。それと同時に、クリスチャンも悲観論に走った。彼らはディスペンセーショナリズムを採用した。

ディスペンセーショナリズムでは、千年王国は教会時代ではなく、将来にやってくる再臨のキリストによるイスラエルからの直接統治である。

だから、ディスペンセーショナリズムのプレ・ミレ(前千年王国説)が主流の位置を占めてきたのは、たかだか100年にも満たない。

われわれは、教会がそのほとんどの期間信じてきたポスト・ミレ(後千年王国説)を復活させなければならない。

さて、20章が教会時代であるならば、19章までは、教会時代の開始前ということになる。

そう。黙示録は19章までは、イエス以降から紀元70年の神殿崩壊までを扱っている。

紀元70年に神殿が崩壊して、イエスの御体(教会)が神殿になった。

クリスチャンは、「聖霊の宮」である。

紀元70年から正式に神殿は、イエス及びクリスチャンの体になった。

神殿の変化は、宗教体系の変化を象徴する。

つまり、紀元70年に、旧約時代から新約時代に変化した。

「型の時代」から「本体の時代」へ。「ユダヤ民族限定の時代」から「全民族の時代」へ。

ディスペンセーショナリズムは、「律法の時代」から「御霊の時代」へ、と考えるが、間違い。

なぜならば、パウロは新約時代にも律法が適用されると述べているので。


教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法も言うように、服従しなさい。(1コリント14・34)

「ここで、律法に従えといったのは、旧約から新約への過渡的時代だからだ。」というかもしれないが、じゃあ「新約時代に、妻は夫に服従しなくてもいいのか」ということになる。

パウロは、明らかに新約時代の掟は旧約律法と連続していると述べている。

さて、このように紀元70年とは、人類の歴史において非常に意味のある年である。歴史を二分する年である。

キリストは、ここで正式に世界の王になられた。万物は回復した。すべてが神と和解した。

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝った(原語では「征服した」の完了形:つまり「世を征服して、今も征服している」)のです。 (ヨハネ16・33)

その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。(コリント1・20)

ディスペンセーショナリズムは、キリストが世界を征服するのは、再臨後の千年王国がやってきてからであるという。

しかし、聖書は、「すでに征服している」と述べる。

ディスペンセーショナリズムは、キリストが世界を和解するのは、再臨後であるという。

しかし、聖書は、「すでに和解した」と述べる。

ディスペンセーショナリズムは、キリストが和解するのは、人間の魂だけであるという。

しかし、聖書は、「地にあるものも天にあるものも『万物を』和解した」と述べる。

つまり、宇宙はすでにキリストの王国なのである。

だから、聖書全体を見ると、黙示録の千年王国は、未来に起こるものではなく、すでに起きていると考えるべきだ。

「え〜、これが千年王国なのですか?悪魔の王国に見えます」という人は、「聖書を聖書によって読む」という基本原則を破っている。

聖書が最高権威であるからには、聖書を解釈するための土台は聖書にしかない。

感情とか主観が優先されるならば、聖書への読み込みが起こり、時代や場所、人間の思考によって解釈が変わってよいということになる。

そうなると、人間の思想が、聖書よりも優越するということになり、聖書信仰は崩れる。

新聞を片手に聖書を読む「ニュースペーパー解釈」は、異端の手法である。

千年王国を解釈する場合に、聖書の他の箇所と見比べながら、調和を取る必要がある。

 

 

2011年5月7日

 

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