携挙は紀元1世紀に起きた


(1)

教会では、携挙がこれから起きると教えられているが、携挙はすでに紀元1世紀に起きた。


次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(1テサロニケ4・17)

「生き残っている私たち」とは誰か?

パウロと手紙の直接の読者テサロニケ教会の人々である。

21世紀に住むわれわれだろうか。

違う。

なぜならば「生き残っている」人々ではないから。

パウロが手紙を書いた時点で生き残っている人々は、すなわち紀元1世紀の人々である。

「私たち」とあるから、それは、漠然と紀元1世紀の人々ではなく、パウロが語りかけている相手、つまり、読者であるテサロニケ教会の人々以外ではない。

そして、その「私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会う」のである。

つまり、紀元1世紀のテサロニケ教会の人々が携挙されるのである。

これは成就した。

なぜそう言えるのか?

この手紙が聖書に含まれているから。

もしパウロの言葉が外れたのであれば、聖書には含まれていないはずだから。

聖書にこの手紙が含まれているということは、この予言が成就し、紀元1世紀のテサロニケ教会のクリスチャンたちが、携挙されたことを意味している。

いわゆる「外的資料」は不要。

聖書は聖書によって解釈すべし。

聖書以上の権威がない以上、これが聖書解釈の大原則である。

イエスの紀元70年の来臨についても同じ。

ある人は、「イエスは昇天と同じ姿でまた来られると聖書に書いてあるが、そんなこと起きたのか?歴史的な資料でそんなことを示している文書はないが。」というが、聖書の記述は聖書によって証明されるので、紀元1世紀にイエスの再臨があったことが聖書によって証明できれば、外部資料の助けは不要なのである。

イエスはマタイ24章において「これらが起きるまでこの時代は過ぎ去らない」と言われた。

これによって、再臨が紀元1世紀に起きたことは明らかである。

だから、外部資料がなくてもわれわれにとってこの事実は受け入れなければならない。

紀元1世紀のテサロニケ教会のクリスチャンたちが携挙されたことを示す歴史的資料がなくても、われわれは、それが起きたことを信じ「なければならない」。

(2)

携挙は、歴史的事実として起きた。

だから、われわれ21世紀に住むクリスチャンに起きることを期待すべきではない。

ディスペンセーショナリズムが教えるような、「これから世界は大患難時代に突入し、その前に(またはその最中、もしくは、その後に)携挙が起きる」ことはない。

大患難時代もこれから起きることを聖書から証明できない。

なぜならば、あれは、紀元1世紀に起きたから。

イエスの再臨が紀元70年に起きる前に、黙示録の預言どおりにそれは起きた。すなわち、

1.反キリスト(つまり、多数の背教者)が現れ、

2.獣(つまり、皇帝ネロ)が現れ、

3.クリスチャンが多数殉教し(ローマ大火後の大迫害、ペテロやパウロの殉教など)

4.獣のしるしがついていない人々は誰も売ることも買うこともできなかった(これは資料がないが、聖書そのものの証言によってあったことがわかる)。

歴史的資料があるかないかにかかわらず、聖書の内部証明によって大患難があったと分る。

そして、同じように、携挙もあった。

大患難を未来に期待できないように、携挙も期待できない。

(3)

ただし、「クリスチャンが昇天し、キリストとともに王となり、世界の支配者になった」という意味において、携挙はわれわれにも起きる。

それが起きるのは、われわれがこの肉体を脱ぎ捨てるときである。

イエス・キリストの復活と昇天がすでに起き、それに伴ってクリスチャンの復活があり、携挙という昇天があった。

また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。
そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都に入って多くの人に現われた。(マタイ27・52-54)

旧約時代において、クリスチャンもノンクリスチャンも死ぬと黄泉に行った。

クリスチャンはアブラハムがいる「慰めの場所」に、ノンクリスチャンは金持ちが落ちた「苦しみの場所」に。

しかし、イエスが復活し、黄泉に下り、これらクリスチャンたちを引き連れて、パラダイスに上られた。

新約時代になって、クリスチャンは、もはや黄泉の「慰めの場所」に下ることはなく、死ぬとすぐに復活し、体を与えられ、直にパラダイスに行く。

だから、紀元1世紀にテサロニケの人々に起きた携挙は、われわれも肉体を離れるときに経験することになる。

しかし、紀元70年の再臨の際に起きた携挙がこれから起きることを期待できない。

(4)

紀元70年の再臨は第1の清めであり、世の終わりにある再臨は第2の清めである。

イエスの千年王国(黙示録が象徴的数字で満ちているように、文字通りの千年と解釈する必要はない)が終るときに、イエスは再度来臨され、歴史が終わる。

律法の定めのように、清めは2度必要である。

第1の清めは、法的な清め。

つまり、全世界がキリストによって法的に和解し、所有された。

(神は)その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。(コロサイ1・20)

この所有は、歴史を通じて、現実化されなければならない。

教会には、その使命が与えられている。

つまり、「地を従えよ」の創世記の命令を成就するために、教会は働かねばならない。

全世界を福音によって変える使命がわれわれに与えられている。

 

 

2014年10月12日



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