パーシャルプレテリズムのポスト・ミレしか希望を与えられない2


主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(1テサロニケ4・16-17)

プレ・ミレでは、これは未来に起きるという。

しかし、パウロは、パウロと同時代に起きるという。

なぜならば、「生き残っている私たち」とあるから。

パウロは、携挙が起きるときに自分たちは「生き残っている」と言った。

この手紙自体、紀元一世紀のテサロニケのクリスチャンを励ますためであったので、もし携挙がその時代に起きていなければ、パウロはむなしい約束をしたことになる。

つまり、テサロニケのクリスチャンたちは、パウロの約束を信じて携挙を待っていたが、ついに起きなかったと。

だから、プレ・ミレを選択すると、パウロを詐欺師としてしまうのだ。

そして、聖書を「当たらない予言の書」としてしまうのだ。

携挙は紀元70年以前に起きた。

そのとき、「よみ」に眠っていたクリスチャンたちの体がまずよみがえり、続いて、生き残っていたテサロニケのクリスチャンたちの体が瞬時に「御霊のからだ」に変えられて、キリスト及び眠っていたクリスチャンたちとともに永遠の生活を開始した。

聖書を神の言葉と信じるならば、このことを信じなければならない。

 

 

2011年6月6日

 

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