「ダビデの幕屋の回復」について3
以上のようにいうと、「それでは、イスラエル人は、土地を失ったままでいいのか。日本人のように日本という国土を持たないままでもいいというのか」と尋ねる人がいるかもしれません。
旧約時代において
「散らされること」=「裁き」
「集められること」=「祝福」
でしたが、新約時代においては、
「信仰によってキリストの家族に加えられること」は「統一」であり「集められること」になるので、宗教的な意味で、祝福は成就しました。
ですから「パレスチナにイスラエル国を建国しない限り回復したことにならない」とは言えません。
それゆえ、ロスチャイルドが行っている大イスラエル建国運動(アブラハムに約束された土地の獲得運動)は間違いです。
ユーフラテスからナイルまでイスラエルは領土を拡大し、アブラハムへの領土の約束は成就しました。
なぜか。
イエス・キリストが「天地における一切の権威」を受けられたからです。
紀元1世紀にイエス・キリストを王とする世界が現出したのですから、アブラハム契約は成就したのです。
もし「これじゃあ足りない。実際に支配しないと意味がない」というのであれば、「イエス・キリストは律法と預言者を成就しなかったのですか?」と問われます。
イエス・キリストが「わたしは律法と預言者を成就するために来た」と言われ、十字架上で「完了した」と言われたのはむなしい言葉だったのでしょうか。
律法と預言者を成就した以上、アブラハム契約も成就し、アブラハムへの土地の約束も成就したのです。
これ以外の理解は異端です。
だからと言って、私は、イスラエル民族の土地回復まで否定しているわけではありません。
宗教的な意味では成就しても、世俗的な意味では成就していない場合があります。
われわれ日本人だって、国土を蹂躙され、分割されるのはいやです。
ですから、そのような世俗的な意味で、イスラエル人がパレスチナに住むことを望むことを否定するつもりはありません。
しかし、そのパレスチナ復帰のための運動が聖書の預言の成就として行われることに賛成できません。
イスラエル建国は、聖書の預言の成就ではなく、イスラエルの民族的願望の実現です。
それは、日本人の北方領土返還の願望と同じ類の願いです。
イスラエルの民が、日本にやってきたのではないかとの日猶同祖論の説も、この類であって、聖書預言の成就とは無関係です。
天皇家の紋章が南北イスラエル王朝と同じであったとして、それが実際に古代のユダヤ人の願望の成就であったとしても、それが、聖書契約と関係するわけではありません。
あくまでも、裁きを逃れ、新天新地を求めたイスラエル人が日本列島に入ったということでしかない。
なぜならば、くどいようですが、旧約聖書はイエス・キリストによって「ことごとく」成就したからです。
2016年4月28日
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