地を従えよとの命令はアダムに与えられただけではなく、アダム族に属するすべての人類に与えられた。
その時、われわれ一人一人は、エデンの園にいた。
また、いうならば、…レビでさえアブラハムを通して十分の一を納めているのです。
というのは、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたときには、レビはまだ父の腰の中にいたからです。(ヘブル7・9-10)
レビはまだ生まれていなかったが、その曽祖父アブラハムを通してメルキゼデクに十分の一を納めた。
聖書の考え方(つまり、神の考え方)では、先祖と子孫は一体なのである。
われわれはエデンの園において神と契約を結んだ。
それは、業の契約である。
神の法を守れば永遠の命を得られるという契約である。
アダムが失敗したときに、われわれも失敗した。
だから、アダムを先祖にしている間は、われわれも失敗者である。
行為義認の宗教は、「まだ試験をすれば合格できる!」と教える。
何かの行為によって救われようとするのは間違いである。
なぜならば、エデンの園においてわれわれは、すでに「死刑」を宣告されたのだから。
裁判は終了した。
判決は絶対に覆られない。
われわれが救われて永遠の命を得るために必要な方法は、「先祖を変える」ことである。
イエス・キリストはまったく新しい人類として誕生された。
マリアの胎を借りたが、遺伝子を受け継いでいない。
新人類である。
この新人類の祖であるイエス・キリストは神の試験に合格し、しかも、旧人類の罪の責任を負って死なれた。
だから、イエス・キリストは永遠の命を獲得し、信じる者の罪責を帳消しにされた。
われわれは、このイエス・キリストを先祖としなければならない。
キリスト族になることによって、われわれもイエス・キリストとともに十字架につき、神の法をすべて守った。
キリスト族になるには、ただ信仰である。
イエス・キリストが十字架につかれたのが自分の罪のためであると信じて告白し、そして、イエスを主として歩むことである。
これによってキリスト契約に入る。
洗礼はその印である。
教会には目に見える教会と目に見えない教会がある。
目に見えない教会は、世界中に存在するキリスト族の人々の集合体である。
それは、一つの体、キリストの体である。
目に見える教会とは、その地方における集合であり、人体で言えば各パーツのようなものである。
われわれは、礼拝と聖餐式をするためにこの目に見える教会に所属する。
世界の歴史の意味とは、このキリストの体である教会(エクレシア)が、どんどん発展し、悪魔に乗っ取られた世界を神のために奪還し、最後に全世界を神の国に変えることである。
地を従えよとの命令は、第2のアダムであり、われわれの先祖であるキリストに再度与えられた。
そして、その命令はキリストにおいて法的に成就された(マタイ5・17)。
この法的事実を実際化するために教会(エクレシア)は働く。
地を従えよとの命令は、キリストにおいて成就したので、その体である教会も成就できる。
福音伝道と教育、そして、神の国のために事業を通じて、全世界が神のために働き、神の本来の創造の目的である「神の栄光をあらわす」状態に至る。
これは、すでに決定された筋書であり、これ以外絶対に起こらない。
神の国に逆らう者は、すべて自らを破滅に至らしめる。
われわれの神の国建設の活動を妨害する者はことごとく破壊される。
御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。(詩篇2・12)