「パウロに関する新しい見解」のN・T・ライトとフェデラル・ヴィジョン2


N・T・ライトは、教会合同つまりエキュメニカル運動の回し者である。

ローマ・カトリックとプロテスタントの垣根を取り去るために、義認の教理を捻じ曲げている。

どのように捻じ曲げたかというと、義認を、イエス・キリストの救いを個人的に受け入れることとして見るのではなく、教会や契約に加入するかどうかの問題に貶めることによってである。

つまり、こういうことである。

正統派の聖書的キリスト教では、義認とは「律法を守り、贖いを成し遂げられたイエス・キリストを信じる信仰によってのみ」達成される。

われわれは、イエス・キリストがアダムの身代わりに律法を完全に守り、神の前に義と永遠の命を獲得してくださったので、信仰によってイエス・キリストの体であるエクレシア(召された者の集まり。単なる制度的教会ではない)に加わり、イエス・キリストと有機的契約的なつながりを持つことによってその功徳を受け継ぐ者となる。

これは、「信じて告白する」ことによって可能になる。


人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(ローマ10・10)

単なる教会で洗礼を受けたから救われるのではなく、心に信じなければならない。

それゆえ、義認は、神との個人的関係が主である。

人間存在の基本中の基本の部分である「心」における変化が必要である。

しかし、ライトは、義認を集団的ととらえる。

外面的教会制度に加わることによって義と認められると。

礼典は、新しい創造の現実を示す単なる印ではなく、実際にその一部なのである。バプテスマは、…単なる新生、新しい家族への加入の現実を示す道標ではない。それは、実際に、その加入への門なのである。
N.T. Wright, Surprised by Hope: Rethinking Heaven, the Resurrection, and the Mission of the Church (New York, NY: HarperCollins Publishers, 2008), 271-273.

ここで、はっきりと「バプテスマによる救い」の異端的教えが述べられている。

パウロがこう述べているにもかかわらず。

割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。(ガラテヤ6・15)

では、幼児洗礼はどうなのかという疑問が起きる。

聖書では、家族単位での祝福を述べている。

ラハブの家族は他の家族よりも格別の恵みを与えられた。

しかし、制限があった。

自ら進んで救いを拒むならば救われないという。

私たちが、この地に入って来たなら、あなたは、私たちをつり降ろした窓に、この赤いひもを結びつけておかなければならない。また、あなたの父と母、兄弟、また、あなたの父の家族を全部、あなたの家に集めておかなければならない。
あなたの家の戸口から外へ出る者があれば、その血はその者自身のこうべに帰する。私たちは誓いから解かれる。しかし、あなたといっしょに家の中にいる者に手をかけるなら、その血は私たちのこうべに帰する。(ヨシュア2・18-19)

それゆえ、聖書は家族契約を重視しているが、基本は個人の選択である。

個人が心において救いを拒むならば、いくらクリスチャンホームであっても救われない。

ライトは、外面的制度的儀式による救いを導入することによって、同じ教理を持つローマ・カトリックとの合同が可能であるという。

私は、サタンは、ライトを通じて、プロテスタントの信仰を破壊し、ローマ・カトリックとの教会合同に道を開いたと考える。

以下、参考として、カリフォルニア州パノラマ市の『グレース・トゥ・ユー』の理事フィル・ジョンソン師による説明を読んでいただきたい。

ライトのWhat Saint Paul Really Saidという題の著書によれば、義認は「神とどのような関係にあるのか」ではなく、「民族的及び文化的集団が互いにどう関係し合っているか」についての問題である。

122ページ:
パウロにとって、義認は…「どうやってクリスチャンになるか」ではなく、「ある人が契約の家族に属していることを確認するにはどうしたらよいか」という問題を扱う。[義認]は、キリストを信じるすべての人が、人種の違いを乗り越えて同じ食卓につくことを主張する。」

それゆえライトの考えでは、義認とは、エキュメニカルかつ教会論的な問題であって、救済論的問題ではない。

158ページ:
パウロの信仰義認の教理を通じて、教会は、現在のバラバラな状態を捨てて、エキュメニカル(教会合同)の任務に駆り立てられる。

「イエスを信じる人はみな同じ食卓に属している」(ガラテヤ2章)と宣言するまさにその教理が、「義認に関して異なる教理を持つ人々を食卓から排除すべきだ」との主張に利用されてよいわけがない。

換言すれば、義認の教理は、熱心な教会合同の努力の末に、カトリックとプロテスタントが合意に至ることができる教えなのである。

それだけではなく、義認の教理はそれ自体、教会合同の教えでもあって、教会が文化ごとに小さくまとまるグループ化の傾向を非難し、「イエスを信じる人々は同じ一つの家族に所属している」と宣言する…。

義認の教理は、実際のところ、偉大なる教会合同の教えなのである。

http://www.ligonier.org/learn/articles/whats-wrong-wright-examining-new-perspective-paul/

 

 

2014年4月26日



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