天上のクリスチャンは御国建設に積極的に関わっている


高野山金剛峯寺奥の院に向かう参道の入り口には、有名な「大秦景教流行中国碑」がある。

これは、真言宗がもともと景教であった一つの暗示である。

空海の影響を強く受けている日本の仏教とは、仏教の仮面をつけたキリスト教である。

キリスト教と言っても偶像があるので聖書的とは言えないが。

この参道沿いには無数の墓がある。

しかし、空海には墓がない。この宗派によれば、空海は今も生きており、毎日食事が届けられている。

これは「クリスチャンは死なない」という聖書の教えの影響であろう。

クリスチャンはお墓を作ってはならないのである。

青森の新郷村には「キリストの墓」があるが、偽物である。復活し、昇天されたキリストには墓はない。

同じように、クリスチャンも復活し、昇天する。

法的には―つまり、イエス・キリストにあっては―クリスチャンは今、この時点ですでに復活しており、昇天している。

われわれは、すでに不死の存在となり、世界の支配者になっている。


(神は私たちを)キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。(エペ2・6)

だから、われわれには、マイナスな言葉や考え方はふさわしくない。

われわれの辞書には、「絶望」「不可能」「失敗」「死」という言葉はない。

われわれを襲う困難や逆境は、単なる「一時的な曇り空」のようなものである。

太陽が不動の存在として天にある限り、必ず晴れの日は来る。

われわれにとって死とは「御霊のからだへの切り替え」でしかない。

兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。(1コリント15・50)

死は、失敗でも絶望でも刑罰でもなく、「永遠の御国を相続するのにふさわしい体」への切り替えである。

死ぬと同時に、御霊のからだが与えられ、天に昇り、実質的な支配者として、御霊のからだにおいて世界の王として君臨する。

それゆえ、クリスチャンはお墓を作るべきではない。

記念碑ならよい。

「死人に口なし」というように、お墓は、無力の象徴である。

地上のクリスチャンと天上のクリスチャンの違いは、「血肉のからだ」であるか「御霊のからだ」であるかの違いだけであり、支配者であることに変わりはない。

天上において戦いはなく、安息があるが、しかし、まったくの無活動になるわけではない。

彼らは、地上における戦いを支援している。

天上にいるモーセとエリヤ(*)が現れてイエスと語り合ったと聖書に記されている。

それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。
そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。
しかも、モーセとエリヤが現われてイエスと話し合っているではないか。(マタイ17・1-3)

何について話し合っていたのか。

しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって、
栄光のうちに現われて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。(ルカ9・30-31)

テーマは「イエスの十字架と復活」についてであった。

つまり、天上のクリスチャンは、地上の出来事に関心を持ち、積極的に関与しているのである。

イエスが復活し、昇天されて以降、同じように、われわれも肉体を離れると、御霊のからだが与えられ、そこで地上における御国建設に積極的に関わることになる。

(*)

神は、モーセとエリヤは、他の旧約の聖徒たちとは異なり、死んで、黄泉の「なぐさめの場所」に下ることはせず、先に天上に挙げられていた。

こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現われ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。(2列王記2・11)

御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことはせず、「主があなたを戒めてくださるように」と言いました。(ユダ1・9)

 

 

2018年9月14日



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