競争社会は悪ではない


憐れみが間違って使われている。

「あの選手は競争に負けた。かわいそうだ。競争なんかがあるから間違っている。」といってスポーツに反対する人がいる。

競争に負けた、事業に失敗した、失恋した、受験に失敗した…

たしかに失敗は残念なことだが、悪ではない。

法律が取り締まるべきは悪であって、失敗ではない。

社会主義や共産主義は、まったく逆である。

失敗を取り締まって、悪を野放しにする。

たとえば、ソ連では誰も倒産しないために、ある製品の製造会社を一つに絞った。

傘を買いたくても、○○社の傘しかない。

競争が排除されたから倒産もないが、顧客には選択権がなくなった。

だから、不良品でも買わなければならない。

労働者には天国かもしれないが、顧客にとっては地獄である。

結局、顧客のニーズを規制することはできないから闇市ができる。

二重経済になって矛盾が募っていく。

社会主義国家の経済が破たんするのは、現実を無視しているからだ。

規制しなくてもいいものを規制するからだ。

競争で勝つことも負けることも罪ではなない。

だからそれを取り締まるべきではない。

失敗したらやり直せばいい。

こういうことについて国が取り締まっても無理だし、無駄だ。

事業に失敗することは厳しいことだが、しかし罪ではないからやり直せばいい。

それは、恥でもなんでもない。こういった罪ではないことについて恥ずかしいと感じるのは、社会や自分が間違った考え方をしているからだ。

国が取り締まらねばならないのは、悪だ。

悪を取り締まらないと、社会は崩壊する。

この点で国は厳しくなければならない。

しかし、競争における失敗をなくすとか、失敗に伴う不幸を最小にするとかは、国の責任ではない。

そして、国民も、その責任を国に問うてはならない。

あくまでも自己責任。

われわれはおかしな教育を受けてきた。

失敗を悪と教わった。

そして、罪を恥ずべきものではないと教わった。

基準をきちんと定めよう。

結果を平等にするために、競争社会を排除するのはまったく的が外れており、非常に有害な考え方である。

 

 

2010年12月7日

 

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