われわれの価値観では神の御心を知ることはできない


よく「あの人はクリスチャンに向いているから伝道してください」とか言われるが、クリスチャンに向いている人などいない。

救われるか救われないかは、神の主権によって永遠の昔に決められている。

それは、人間の資質とは無関係である。

真面目だからクリスチャンになるとか、不真面目だからクリスチャンにならないとか、こういう判断は人間的である。

牧師は、人間的に見れば性格の悪い人が多いように見える。

信仰をわきにおいてみれば、付き合いたくない人が多い。

すぐに傲慢になり、人を利用し、人の嫌がることを避ける。

しかし、そういう人が大きく用いられている。

人間が見る見方と神の見る見方は全然違う。

神は人間の資質と無関係に人を選ばれる。

だから、われわれの側では誰がクリスチャンになるか、ならないかはわからない。

だから、広く網をかけるしかない。

いろんな魚がいる海で、サメもいれば、タコもいる。

見栄えがよい魚だけを好むのが人間である。

イエスの弟子たちは実に多様であった。

今で言えば、底辺の集まりである。

右翼、吝嗇家、そこつ者、売春婦、・・・

エリートなのは、パウロぐらいだ。

パウロも、もともとクリスチャンを迫害していた人間である。


しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。(1コリント1・27)

神はバランスを取られる方である。

人間的に優秀な人はむしろ選ばれない。

神の国は、人間の知恵で作られるのではなく、神の主権と力で作られる。

そのことを示すためにあえて、底辺の人を選び、仕事をさせる。

優秀な人の集まりであれば、「ああ、彼らは優秀だからできるのだ」ということになり、神の栄光が消える。

神は、ご自身の栄光を横取りされないために、人間的にダメな人を用いられる。

だから、アメリカ人の証でよくある「私は、〇〇の仕事で優秀な成績を収めて収入も多かったのですが、神の仕事をするために伝道者になりました」などというのは嘘だ。

本当の献身者はボロボロにされる。

挫折の連続を味わわされる。

みじめな体験をさんざんさせられる。

業績とか関係ない。

しかし、アメリカの社会では、強くないとリーダーになれないから、見栄を張るのである。

強さをアピールしなければ、人がついてこない。

こういうミニストリに、私は本物を感じない。

もし本当に神の働きならば、神はボロボロの人を用いるはずだ。

モーセは人殺しだった。

エジプトの看守を殺した。

そのため、40年間荒野で逃亡生活をした。

イエスも、実際の生活では罪は犯さなかったが、目立つ存在ではなかった。

「あいつは、大工のせがれではないか。父親も母親もよく知っている」と言われた。

だから故郷のナザレでは敬われなかった。

「メシアなら、もっとこうあるはずでは?」という意識が人々にあった。

十字架にかかられたときも、「本当にメシアであるなら、そこから降りてこい」と揶揄された。

人間が期待する姿ではなかった。

だから、立派でなくてもいいというわけではないが、われわれの価値観では神の御心を知ることはできないのである。

 

 

2015年3月12日



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