レールの上を進む人生以外の人生はない
神が示してくださる事柄は、まず脳裏に浮かぶ。
それについてしばらく気にかかるが、いずれそれを具体的に示す書物やHPなどが現れる。
そして、確信を得る。
これは、預言の賜物ではないかと思う。
で、私はこの働き以外を行うと、呪われる。
ごく少数残されている自由は翻訳の仕事である。
これは、おそらくパウロにおけるテント作りと同じものだろう。
自活するために与えられているわずかな収入である。
預言者が預言の仕事以外を行うと、絶望的な苦痛に陥る。
そしてだいたい失敗する。
よく「人が敷いたレールの上を歩きたくない」とか「社会の歯車になるのはいやだ」みたいなロックの歌詞があるが、あれは、まったく人間を理解していない。
人間は、誰でもレールの上しか進めない。
神が敷かれたレールか、悪魔が敷いたレールか。
なぜならば、人間は、もともと契約的存在だから。
人体そのものが契約的にできている。
頭は神を象徴する。
脳の指令によって手足は動く。
神が契約の主であり、契約の民は神の命令のもとに動くことを象徴している。
クリスチャンの体内には、契約の箱がある。
そして、二枚の契約の板もある。
それがクリスチャンの中で常に「善悪」を啓示する。
ノンクリスチャンの場合、これらの契約の箱は破壊されているが、しかし、やはり二枚の板は存在する。
だから、ノンクリスチャンでも神の基準を本能的に知っている。
クリスチャンの場合、聖霊が与えられているから、神の言葉を解釈する力がある。
聖霊は、契約の二枚の板を正しく示される。
クリスチャンの体は神殿であるから、そこから川が流れる。
生ける水の川が腹から流れる。
神社はだいたい川のほとりにある。
湧水が湧いている。
あのようにかつて神殿から水が出ていた。
このようにわれわれは契約的存在であり、不可避的に主の下にいる。
問題は、誰が主であるか。
神か悪魔か。
神が主であれば、神が敷いたレールがある。われわれはそれにしたがって生きるように定められている。
われわれが主であることは一瞬でもない。
だから、われわれが自分の気持ちとか考えで進むと、大きな闇の中に飲みこまれ、自分を見失う。
つまり、「失われた羊」になる。
各自、賜物が与えられている。
牧師の賜物、預言者の賜物、霊を見分ける賜物、捧げる賜物、教える賜物。
それぞれ聖霊が与えられた賜物がある。
これは、生来のものではなく、クリスチャンになると与えられるものである。
こういった賜物を生かさないと、呪われる。
人生は苦痛の連続になる。
各自に召命がある。
その召しにしたがって歩むことがなければ、自分の人生を無駄に使うことになる。
そして、それに従うことを決意して、神に委ねれば、必要なときに必要なものが与えられる。
われわれは、小川の上に浮かんだ舟の上に乗っている人のようなものだ。
その舟に乗って、神の指示どおりに動いていれば、最短コースで目的地に着く。
自分の計画を練って、自分の願望で突き進んでも無駄になる。
また、自分の我欲を優先するならば、手痛い失敗が待っている。
われわれは、レールに乗る以外には生きられない。
自由があるようでない。
契約的存在である以上、神の奴隷である。
これを拒否するならば、自分に裁きを招くしかない。
そして、そういう霊的な事実に無知な人が、不遜にも牧師や伝道師などに挑戦する。
自分の上に立てられた権威に反抗することは、自分を破壊することに等しい。
2014年3月31日
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