義人は信仰によって生きる


1.

祈るとかえって状況が悪化する場合、それは、神が与えられた試練であり、チャレンジである。

神は「それでもわたしを信じるか?」と見ておられる。

御言葉にしたがって何かを行うときに、すんなり行くことは希である。

しばしば、逆のことが起きる。

悪霊の側からすると、「おっ、こいつ、生意気にも、神の国のために動き出したぞ!」と思う。

そして「潰してやれ!」と。

昔、ある伝道師に日猶同祖論について伝えたところ、喜んで帰っていった。

翌日「この活動をやめます」と連絡があった。

義理の父親である主任牧師が禁止したからと。

それ以来、音信不通になった。

ここで彼はふるいにかけられたのである。

彼はこの活動に不適格であることを自分で証明した。


するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」(ルカ9・62)

「正しい」と判断したら、後ろを見ないことである。

以前、外国に住む日本人女性から「再建主義のために家族で献身します」とメールがあった。

一回献金があったのち、音信不通になった。

粘り強さがなければ、どの働きにも適さない。

昔よく、伝道のビラを配った。

マンションやアパート、一戸建てのポストにビラを入れる。

何千枚配っても、反応はほとんどゼロである。

それでがっかりして諦めたら、福音伝道においては不適格である。

諦めずに、何度も何度もチャレンジしなければ、神の国は拡大しない。

御心ならば、一瞬で世界は神の国に変わる。

神には無限の力がある。

しかし、神は、われわれの地道な活動を通じて神の国を拡大しようと考えておられる。

敵は、執拗である。

敵のほうが粘り強いことが多い。

とくに利権獲得のためなら、何度でもチャレンジしてくる。

2.

利権はシステムである。

この世界では、個別の仕事で勝利するよりも、システムを支配した者が勝つ。

たとえば、彼らが政治家に近寄るのは、政治家と仲良くなれば、システムに参加できるからである。

どこかでダム建設があるとする。

建設期間中、山奥にこもる作業員に食事を提供する食堂や食品管理の仕事を受注できれば、何ヶ月かお金が入る。

いったん、そのような仕事を受注すれば、ケータリングの会社と契約を結んで、そこに食料を供給する際にマージンが取れる。

自動的にお金が入る。

産業廃棄物処理もシステムである。

ビール工場ででるホップの残りかすをトラックで運ぶ仕事がある。

産廃の手配をする仕事を受ければ、トラック一台分につきいくらかのマージンが取れる。

賃労働は、自分の働いた分しかお金が入らないが、仲介業は、自分が活動していない間に自動的にマージンが入る。

このように、システムに加わることがなければ、なかなか大金を手にできない。

多くの人は、政治家と仲良くなる手間暇を嫌う。

相手に信用されるためにものすごい努力がいるからだ。

システムに参加し、不労所得を手にするには、執拗さが不可欠である。

3.

左翼の人々は、システムを構築するのに長けているように見える。

彼らは、労働運動や住民運動があれば、乗り込んでくる。

密かに忍び寄って、人々の信頼を得て、運動を支配しようとする。

気づくと、いつのまにか、単なる労働運動や住民運動が、左翼の活動拠点になっている。

われわれ一般人からすれば、「普通の人のふりをして近づき、信頼を獲得して組織を上り詰める」努力はあまりにも大変で、面倒くさく見える。

しかし、戦略的に活動する彼らは、そのような努力を惜しまない。

こうやって、日本は左翼に支配されてきた。

気づいたら、外国人が公務員になっている。官庁が外国人に支配されている。

つまり、侵略されているのである。

敵は、「粘り強さ」の価値を知っている。

4.

クリスチャンは、世界の主が誰か知っているし、その主が自分に味方してくださることも知っている。

では、なぜ神の国は後退しているのか。

「信仰を失って、簡単に諦めたから」である。

ディスペンセーション主義のプレ・ミレ終末論に逃げ込んだのである。

「再臨があれば、すべて変わる。われわれが努力する必要はない」と。

5.

祈って、行動して、結果が出るまでの間に必要なのは、「持続的な信仰」である。

「われわれは勝利するのだ!」と、どんなときでも信じることである。

逆のことが起きたら「いや、それでも信じます」と言わねばならない。

環境を見て「もうだめだ」と思ったら、悪霊の餌食である。

イエスは、大波がかぶる舟の上で寝ておられた。

いかに環境を無視できるか。

これは、筋肉を鍛えるのと同じように、繰り返しの訓練があってはじめて可能になる。

絶望的な状況に陥ったときに「それでも信じます」と言う訓練を何度も何度も積む必要がある。

この訓練を積まない人は未熟であり、簡単に諦めて、逃げる。

われわれにとって、問題は、小さな門が蔦で隠れている壁のようなものである。

遠くから見ると解決不可能に思えるが、いざ近くに行って良く見ると、抜け穴がある。

問題から逃げないで、真正面からぶつかっていくときに、神は必ず脱出の道を用意してくださる。

あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。(1コリント10・13)

神が対処できない状況を与えることは絶対にない。

雨や嵐が吹き荒れているときに「太陽はなくなった」と思わないように、現状を見るのではなく、約束を見るべきである。

わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」(ヘブル10・38)

 

 

2018年6月22日



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