徐福伝説など
「物部氏がユダヤ系キリスト教を
信仰していたというのは、どなたの学説でしょうか。」
既存の学問ではまだ扱えないでしょう。
これは徐福とその子孫である越智氏、物部氏が信仰していた宗教が、旧約聖書の宗教に酷似していることから導き出されます。
ミサクチで検索すると、物部氏の諏訪大社がいかに旧約聖書そのものであるかわかるはずです。
守屋山をご神体とする諏訪大社で、子供を縛って犠牲しようとするが、神の使いがそれを止め、代わりとして鹿をささげる儀式です。
モリヤ山で行われたアブラハムのイサク献上物語と酷似しています。
この儀式でもわかるとおり、物部氏は動物犠牲をしていましたが、(動物犠牲の本質であるキリストの犠牲を信じる)新約聖書の宗教を持ってきた秦氏がそれを止めます。物部氏が動物犠牲をしないように監視したのが禰宜です。
「>>裏に回る際に、この秘密を童謡や童話に隠しました。カゴメ歌では「鶴と亀がすべった」あります
と仰っていますが、
かごめ唄が現在の
「鶴と亀がすべった」
に似た形となるのは、
1915年刊行の俚謡集拾遺で、
収録された童謡は少なくとも、
1905年から存在していたものです。
ただし、「ツルツル辷べった」
という歌詞で、
しかも東京近辺でしか
歌われていませんでした。
もとは「つるつるつっぱいた」
という歌詞だったそうです。
または、子供向けの
言葉遊びともいわれますが、
あなたの主張であれば、
大和政権の時代から、
かごめ唄は現在の形で歌われ、
しかも相当重要な意味が
込められていたことになります。
つい最近まで時の流れとともに
改変されて伝えられ、
しかも現在になって
原点回帰を果たしたというのは、
些か無理のある論理だと思いますが、
どのような歴史的資(史)料から
物部氏がかごめ唄を作った、
と仰っているのか、
ご教示願います。」
この歌に鶴と亀が登場するのには必然性があります。
籠神社の宮司によると、この歌は籠神社にかかわる歌です。
籠神社の祭神祭神彦火明命が竹で編んだ籠船に乗って龍宮へ行ったという伝説があり、これが籠神社の名の由来です。日本書紀や万葉集にも浦島物語には亀がでてきます。
室町以降の『御伽草子』系の一部に浦島説話の変形版があり、浦島は鶴になり、蓬莱の山に飛んで行ったとあります。
以下に興味深い記事があります。
http://mintun.exblog.jp/18824633
このブログの著者が籠神社の宮司に『かごめかごめ』の歌について「“鶴と亀がすべった”の鶴は、何を意味していますか?」と尋ねると、「日神(にっしん、太陽神)です。伊雑宮(いざわのみや)にも鶴の伝説がありますね」と述べました。伊雑宮は、伊勢神宮内宮(皇大神宮)の別宮のうちの一社で、鶴が稲穂をくわえていたという白真鶴の伝説があります。伊雑宮を建立したのは、第十一代垂仁天皇の皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)で、海部宮司家の外孫にあたるといいます。ブログの著者が「鶴が伊雑宮の日神なら、亀は籠神社の海神ですね。亀の甲羅は六角形ですし」と言うと、宮司は静かに微笑まれたといいます。
伊雑宮も籠神社もどちらも物部氏の神社です。
そしてその象徴がそれぞれ鶴と亀。
そして、籠神社の歌であるカゴメ歌。
その歌の中に鶴と亀がでてきても不思議ではない。
しかも、宮司が「鶴と亀がすべった」という歌詞を認めている。
状況証拠的に、現在の歌詞には、物部氏の思想を表す正統性があり、オリジナルの歌詞にその象徴が含まれていた可能性を否定できません。
「富士山が不老不死の山として
語られる最初の資料は、
少なくとも10世紀半ばには
成立していたと考えられる、
「竹取物語」です。
あなたの主張では、
大和政権時代から、
富士山は不老不死の山だから、
富士(不死)山、とまことしやかに
語り継がれていたことになりますが、
如何なる歴史的資(史)料から
読み取ることが可能でしょうか。」
史記によると、「徐福は蓬莱山に渡って不老長寿の薬を求めてくると始皇帝に申し出た、という。始皇帝は大いに喜んで、徐福に多くの財宝と童子数千人を与えて船出させが、そのまま消息不明となった。10年ほどして、徐福は始皇帝に面会を求めて帰ってきた。徐福の報告は、「蓬莱山を発見したが、サメが邪魔して上陸できなかった。再度上陸を試みたい。」というものだった。病床にあった始皇帝は最後の希望を託して、再び財宝を与え出発させた。しかし徐福はそのまま帰らず、どこか遠くで土地を得て王様になったという。始皇帝は翌年死亡した。」
http://www002.upp.so-net.ne.jp/sgun/risou/risoU02.html
さらに、「蓬莱、方丈、瀛州の三つの神山は渤海の中に在り」ともあります。
日本には徐福伝説が多く存在し、この不老不死の薬があるという蓬莱山は富士山だと言われています。
「佐賀の金立神社に残る伝承によると、祭神は「金立大権現」(徐福)と言われているが、三男の徐林が童男童女、百工ら七百人あまりを引き連れ佐賀の地に移住し、神社には徐林が祭られてあるともいう。また、次男の徐明は金華山をめざして熊本地方に移住したとなっている。さらに、徐福と長男の徐市はさらに蓬莱山を求めてシラヌヒ海から、紀州に至り、徐福はこの地(紀州の古座)に留まったが、長男の徐市はさらに東をめざし、スルガノ国に至って蓬莱山(富士山)を見つけたとの伝承も残っている。」
http://www.linktolink.jp/jofuku/page10.htm
山梨の徐福伝説では、
「山梨県の徐福伝説
太平洋を海岸線に沿って北へ航海していた徐福たちは雲上に伸びる雄大な山を見ます。この山こそ大陸に伝わっていた「東海中の蓬莱山」であり,不老不死の仙薬があると考えられた富士山でした。一行は現在の富士市か沼津市に上陸し,富士山をめざしました。
駿河湾から見る富士山は徐福らを驚かせたことでしょう。これまで見た蓬莱山とは比べものにならない美しさです。」とあります。
http://www.densetsu-tobira.com/jofuku/yamanashi.html
日本の別名が瀛洲であり、富士山の別名が蓬莱山であるというのも、理由があるからではないでしょうか。
2015年11月12日
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