異端的な聖書解釈から離れるべきである
聖書には、直接の読者が読んでわからないことは書いていない。
http://www.millnm.net/qanda4/66o4ksEmE9Fs46957.htm
これは、聖書解釈の大原則である。
なぜならば、もし当時の読者が読んでわからないことも書かれているということが事実であれば、「聖書をどのように読んでもかまわない」ということになるからだ。
それぞれの時代の人々が勝手に自分の判断で聖書を解釈できるということになる。
これはどの文書でも同じだが、読者は、直接の読者の立場に立って解釈しなければならない。
源氏物語を読む場合に必要なのは、当時の時代背景、人間関係、当時の風習や習慣を知ることである。
そして、その時代の特定的な文脈に沿って文章を理解する必要がある。
そうせずに、われわれの常識や習慣、ものの考え方を適用していけば誤った解釈になる。
このような恣意的な解釈を行えば、古文で合格点は取れない。
学者であれば、すぐに学界から追い出される。
しかし、聖書においては、このような恣意的解釈が堂々とまかりとおる。
文脈や時代背景を無視して、現代の常識で解釈することができるとされている。
獣に関して、「読者よ、悟れ」とのヨハネの促しは、21世紀の現代人に向けられたものだと勝手に解釈されている。
しかし、あれは、紀元一世紀当時の人々に向けたものなのである。
当時の人々が「悟」ることができる人間なのである。
だから、これから現れる世界大統領であるはずがない。
そんな21世紀の世界大統領についてヨハネが紀元一世紀の読者に対して「悟れ」というはずがないではないか。
聖書解釈の大原則を適用すると、ディスペンセーショナリズムのプレ・ミレは間違いだということになる。
一日も早く、異端的な聖書解釈から離れるべきである。
2014年2月12日
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