クリスチャンは神の権力代行者である


1.

クリスチャンの体は、復活体であり、それゆえ神殿である。

ただし、それは「実質的な復活体」ではなく「法的な復活体」である。

なぜならば、それはまだ「血肉のからだ」であるから。

パウロが言うように、「血肉のからだ」では「神の国を相続できない」。

「朽ちるもの」は「永遠のもの」を相続できない。

しかしわれわれが肉体を離れた後にすぐに与えられる「御霊のからだ」は、「朽ちない」のでそれを相続できる。

われわれの「血肉のからだ」は「法的な復活体」である。

実際には復活していないが「キリストにあって」復活している。

キリストと教会(全クリスチャン)は、「頭と体」「新郎と新婦」の関係にあり、契約的に「一人」なので、キリストが「復活した」のでわれわれも「復活した」。

「法的な復活体」であるが「神の目から見て」復活体である。

それは、神が教会を「キリストと一体であるがゆえに無罪」とみなしてくださるのと同じである。

教会は、キリストと法的・契約的に一体であるがゆえに、キリストと同じ立場にある。

夫婦が一人一人別人であるが、契約を結んで一人であるのと同じである。

夫婦が「一人の法人」であるのと同様に、キリストと教会も「一人の法人」である。

キリストが処刑されたのであれば、われわれも処刑された。

キリストが復活されたのであれば、われわれも復活した。

キリストが王になったのであれば、われわれも王になった。

キリストの体が神殿となったのであれば、われわれの体も神殿となった。

キリストとわれわれは、運命共同体である。

2.

「キリストと教会は一人」と言った場合に、誤解してはならないのは、今述べたように、それは「法的に一人」ということである。

「実質的に一人」と考えてはならない。

そのように考えると汎神論になる。

あくまでも「実際的には、キリストと教会は、別ものである」。

前者は超越者であり、創造者であり、後者は、非超越者であり、被造物である。

汎神論は、神と人の「一体性」を「存在論的な一体性」と誤解する。

この区別がしっかりできていないと「人間崇拝」の誘惑に陥りやすい。

「クリスチャンには御霊が内在しているので、クリスチャンは神だ」と誤解してはならない。

クリスチャンの体が神殿であり、御霊が内在しているのは、あくまでも「キリストと法的に一体であるから」である。

夫と妻が法的に一体であっても、夫は妻ではないし、妻は夫ではない。互いに異なる人である。

同じように、キリストと教会は互いに異なる存在である。

いかなる人間にも組織にも、祈りや礼拝を捧げてはならない。

ローマ・カトリックは、法王やカトリック教会を神格化しているので、この誤謬に陥っている。

3.

クリスチャンの体は、御霊が内在する神殿であるが、神ではなく、それゆえ礼拝の対象にはならない。

しかし、だからといって、超越的な業を行えないわけではない。

われわれは「イエスにあって」奇跡を行うことができる。

警察官個人は、ただの人間だが、警察組織の一員であり、国から権限を与えられているので「国の名のもとに」権力を行使することができる。

犯罪の現場で犯人を逮捕できる。

令状があれば、個人の自宅や仕事場に踏み込んで捜査できる。

スピード違反をした車を止めて、運転手に罰金を科すことができる。

われわれ個人は「ただの人」だが、「キリストの御体に法的に属するので」キリストの権能を帯びている。

「イエスの御名によって」祈るならば、その祈りは神に聞かれる。

「イエスの御名によって」悪霊に命じるならば、悪霊はわれわれの言うことを聞く。

「イエスの御名によって」病の癒やしを祈れば、病は癒やされる。

われわれは、神の権力代行者である。


まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。(マルコ11・23)

山は「神の支配」の象徴であるだけではなく、「サタンの支配」のそれでもある。

海は「滅亡」の象徴。

「山が海に入る」とは「サタンの支配の滅亡」を表している。

それゆえ、われわれ「疑わずに」祈れば、サタンの支配は崩壊するのである。

 

 

2018年11月7日



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