「科学だけでいい」という人は科学を知らない


科学はできるだけ先入観を排除し、結果を観察し、それを関数化(法則化)することによって成立する。

だから、経験できないようなことを判断するのは、科学の仕事ではない。

処女降誕があったかどうか、について、判断できない。

「通常、処女降誕はない」とは言えるが、「歴史上一度もなかった」とまでは言えない。

なぜならば、神が奇跡を起こす可能性を否定できないから。

帰納法的認識論に基づく科学では、得られたデータからしか判断できない。

今後得られるデータがそれまでの法則と異なるものである場合、その法則を書き換えなければならない。

だから、科学は反証可能性を残しておかねばならない。

これが帰納法的認識論の限界である。

つまり「経験したこと以外、言えない」のである。

だから、科学的に死後の世界について何かを言うことはできない。

なぜならば、データがないから。

蘇生した人々の証言がデータ?それは単なる脳内での異常な電流によって起きた幻想かもしれない。

死後の世界のデータを集めることができない以上、科学は何もいえない。

神の不在を証明できない。

100億のデータを集めて、宇宙の隅々からの情報を集めることができたとしても、その宇宙の外にもう一つの宇宙がありそこに神がおられるかもしれない。

だから、科学がいかに発達しても、キリスト教を否定できない。

われわれ人間は、個別の科学的知識を持っていても生活できないものであり、世界観を必要とする。

ある学生の数学と英語と国語の成績データを会社が入手したとしても、面接を行わなければ採用することはない。

なぜならば、個別データの間を埋める情報こそが鍵だから。

人間の全体像を得るには、個別データでは無理。

面談して様々な印象から判断する。

こういった全体論的な方法を用いることなしに、人間は生活できない。

いくらミシュランの星三つのレストランがあっても、実際に行って食べてみないとおいしいかどうかわからない。

人間は、科学的情報と他の科学的情報を結ぶための世界観を必要とし、それは、帰納法的な認識論では得られない。

人間は、論証的手法だけではなく、直観も必要である。

様々な情報を総合して、世界観を選ぶ。

ある人は仏教を、ある人はキリスト教を、ある人は無神論を、それぞれ選択する。

その選択の方法は、ある程度の科学的データを利用して自分の直観で総合的に判断することである。

「科学だけを信じる。宗教は信じない」という人が決定的に間違っているのは、そのように決定したのも自分の宗教によったという点にある。

科学的知識はあくまでも個別の狭い範囲の情報でしかない。

われわれが生活するには、人生経験や教養、情報など様々なものを総合して瞬間瞬間判断しなければならない。

「科学だけでいい」という人は、科学を知らない。

 

 

2013年12月11日



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