肉体は主が死なれるほどに重要である


かつて川口氏が聖イエス会に属していたころ「受肉した後のイエスの御名よりも、受肉する前の御名のほうが格上である」と言われたが、私はそれを明確に異端として拒絶した。

氏が同教会から離れ、考え方も変わったので、そのような教えを捨てたと思っていたが、最近、それに類することをミレニアムの会員に対して言ったので、それは間違った教えだから取り消してほしいと願ったが「そんなことは言っていない」とは言うものの、具体的な理由を示していただけなかった。

受肉したイエスを軽視するいかなる言説も、われわれクリスチャンは、拒絶すべきである。

「受肉後、イエスの神格が下がった」とか、「人間になったので低い存在になった」という教えは、非聖書的である。

イエスは、神であると同時に人間であられる。

神と人の二性がそのいずれにおいてもいかなる劣化なく、一つの人格において同時に存在する。

カルケドン公会議で決定されたこの正統的な「二性一人格」の教理を否定するいかなる立場も、われわれは受け入れることができない。

それでその教えを撤回するように求めたが「傲慢だ」と逆に非難されたので、仕方なく絶縁に至った。

キリストの受肉を否定的に捉えるのは、ギリシア霊肉二元論に基づくグノーシスの教えである。

ギリシア霊肉二元論では、「霊は尊いが、肉は劣っている」と考える。

聖書では、人間は堕落後、霊も肉も堕落していると教えている。

処女降誕により生まれたイエス・キリストだけが、この堕落の影響を受けていない。

処女降誕は「完全に新しい創造」であり、アダムの契約的な呪いの影響を回避する唯一の方法である。

神はマリアの胎内において、アダムの子孫ではない人類を新しく開始された。

その胎児は、マリアの子孫でもヨセフの子孫でもない。

イエスは、アダムの契約的呪いを受けないまったく新しい人類であり、それなるがゆえに、われわれの贖いを成し遂げることができた。

もしイエスが普通の誕生の仕方で生まれたならば、原罪を引き継ぐことになる。

アダムにあって、人類は契約的に一つだからである。

アダムは人類の代表であり、彼の罪により、全人類が死んだ。

それゆえ、われわれは、アダムにあって「生まれながらに御怒りを受けるべき子」である。


私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペ2・3)

われわれは、生まれたときから失敗者であり、神の裁きの対象である。

その悲惨な運命から解放される道として、神はひとり子を送り、十字架においてわれわれの罪を処罰し、われわれの罪責を取り除かれた。

われわれは、アダムとの契約的関係を断ち切って、アダム族からキリスト族に変わらねばならない。

われわれは、信仰によりキリスト契約に入る。

それによってキリスト族の一員になり、キリストと同じ運命共同体に入る。

神は、キリストが行われた御業を「われわれ自身が行った」とみなしてくださる。

その御業とは、

(1)十字架上で死に罪の刑罰を受ける。

(2)律法を完全に守ることにより永遠の嗣業を受ける。

である。

われわれは、キリストにあって、自らの罪の刑罰を受け、律法を完全に守った。

信仰を持ち続け、キリスト契約の中にとどまり続けるならば、われわれは、キリストと同じ運命をたどる。

つまり、無罪者として神との自由な交わりを享受し、復活して、永遠の命と、永遠の報酬を受ける。

われわれは、キリストにあって、世界の王であり、祭司であり、預言者である。

もしわれわれが天使のように肉体を持たない霊的な存在であれば、キリストは受肉する必要がなかった。

神は、世界の支配者及び相続者として人間を「肉体を持つものとして」創造されたので、「世界の支配者及び相続者として」の人間を回復するには、受肉し、刑罰を受け、復活しなければならなかった。

肉体を何か劣った存在とみなすギリシア思想の影響を受けると、イエスの人間性を拒否するアリウス派のような異端になる。

・・・からだは不品行のためにあるのではなく、主のためであり、主はからだのためです。(1コリント6・13)

「主はからだのため」に地上に来られた。

肉体は主が死なれるほどに重要である。

この点において失敗する教えを聖書的キリスト教と呼ぶことはできない。

 

 

2017年12月27日



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