バターン死の行進の首謀者辻政信とロックフェラー
バターン死の行進はじめ数々の日本軍による虐殺行為の首謀者として挙げられている辻政信は、ロックフェラーと関係していたのではないか。
ロックフェラーのスタンダード石油社顧問弁護士だったアレン・ダレスと辻は、戦前から戦後にかけて関係があった。
彼(辻政信)は、実際、蒋介石の軍隊と日本の間の密使であった。しかも、日本の「一号作戦」を成功に導いた秘密交渉に蒋が従事していた間にであった。この作戦において、日本は、ついに日本本島の爆撃拠点となるはずであった北支における新設の滑走路を攻略することに成功した。
この空軍基地を失ったため、米国は、大型の陸発着爆撃機が日本本土に達することができるマリアナ群島―グアムとサイパン―を攻略すべくさらに迅速に動き出す必要があった。
従って、戦後アレン・ダレスとの間に明白に交わされていた辻政信の通信のほとんどは確認されている。この関係がいかに重要なものであったかも。ダレスは、実際、蒋と日本の秘密交渉に関係していた。
そして、フォレスタルがスタンダードオイル社においてダレスのパートナーであり、日本本島への爆撃に公然と反対していたことからも、ダレスの関与は明白である。
http://www.maxstandridge.net/anobib5.htm
東京の大本営では一部参謀を左遷し、さらに辻を戦闘指導の名目で派遣した。・・・この後、米軍捕虜の移送において発生したバターン死の行進を巡っては、当時の日本軍の兵站事情および米軍兵士の多くがマラリアに感染していたことから恣意的な命令ではないとの意見が存在する[要出典]。その一方で多くの連隊には、「米軍投降者を一律に射殺すべしと」の大本営命令が兵団司令部から口頭で伝達されていた。大本営はこのような命令を発出しておらず、本間中将も全く関知していなかった。当時歩兵第141連隊長であった今井武夫は、戦後の手記において、この命令は辻が口頭で伝達して歩いていたと述べている。バターン西海岸進撃を担当した第十六師団の参謀長渡辺三郎大佐の記憶によると、4月9日、大挙投降した米兵が、道路上に列を作っているのを見て、辻は渡辺に捕虜たちを殺したらどうかと勧告した。渡辺が拒否すると、辻は「参謀長は腰が弱い」と罵った。また、辻は森岡皐師団長に同じことを進言したが「バカ、そんなことができるか」と一喝されて退いた。
フィリピン最高裁判所長官ホセ・アバド・サントスの処刑も、辻の命令によるものであったという説がある[要出典]。川口清健少将は再三その助命を乞うたが、辻は頑として要求を撤回せず、川口はやむなく従った。川口はそのために、戦後数年間モンテンルパの牢獄につながれねばならなかったという。
シンガポールを占領した日本軍は、市内の華僑20万人の一斉検問をおこない、この中から抗日分子であると判断した者を大量に処刑した。このシンガポール華僑虐殺事件を巡っては、東京裁判においては6000人の華僑が殺害されたとされる。当時警備本部で嘱託として勤務していた篠崎護は、この命令は辻が立案したものであると述べている。また、この虐殺事件が戦犯裁判で問題になったとき、責任の所在がハッキリせず、人々は困惑した。連合軍に捕えられて、その罪を問われた人たちは、この虐殺は辻の起案した軍命令によるものであり、 シンガポール陥落直後辻が乗り込んで来て処刑を迫ったので、やむをえず従ったものだと弁明した。しかし肝心の辻政信は、敗戦と共にバンコックで姿を消したまま現われない。 辻さえ姿を現わして、事実に基づいた証言をしてくれれば、助かるのにと、被告をはじめその家族の者はひたすら願った。しかし、辻は遂に現われず、ハッキリ無罪を立証することができないままに、何人かの人が断罪された。 辻が潜伏から再び姿を現わしたときは、もう多くの人の生命が失われたあとだった[6]
国会では何度もシンガポール華僑虐殺事件について論議されているが(実際に虐殺を目撃した堀昌雄などによる)これらの論議はすべて、辻が失踪し国会からいなくなってからの論議になっている。
マレー作戦終了後の1942年3月に辻は東京に呼び戻され作戦班長に栄転した。
辻政信はポートモレスビー作戦で戦略研究命令を受けダバオに赴く。彼が大本営の決定前に独断で攻略命令にすり変えたため作戦が実行されたとの説もある。この作戦の無謀さは多くの人が指摘していた[要出典]が、結果的に数多くの犠牲者を出しながら日本軍は何ら成果を残さないまま撤退した。
1961年、参議院に対して東南アジアの視察を目的として40日間の休暇を申請し、4月4日に公用旅券で日本を出発した。一ヶ月程度の予定であったにもかかわらず、5月半ばになっても帰国しなかったため、家族の依頼によって外務省は現地公館に対して調査を指令している。その後の調査によって、辻は仏教の僧侶に扮してラオスの北部のジャール平原へ単身向かったことが判明したが、4月21日を最後に辻の其の後の足取りの詳細については現在でも判明していない。(以上、Wikipedia "辻政信")
2011年6月5日
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