三神論は異端である7


Yと申します。

三位一体論というキリスト教の根本問題について議論されていますが、三位一体を三神一体と言い換えたら異端になるのでしょうか?

神は唯一なので、三神が無理なら「存在論的に一、実在論的に三」ということも出来るのではないでしょうか。

Y様

メールありがとうございました。

「存在論的に三」と言う場合、「実際に3人の神がおられる」と言う意味です。

「契約的に一」という場合「実際には3人おられるのですが、契約を結んで法人として一人である」という意味です。

夫婦や会社のようなもので、実際は複数の人々がいるのですが、「契約的及び法的に一人」として行動します。

ここで問題になっているのは、はたして神がお一人であると聖書が述べているのは「実際に存在論的に一人なのか」それとも「法人として一人」なのか、です。

存在論的に一人と言ってしまうと、聖書には、父子御霊がそれぞれ別の人格として存在することが明示されており、矛盾が生じます。

しかし、今の正統派のキリスト教は、伝統的に教会は「三人の神は存在しない。存在論的に一人である」という立場を取ってきたと解釈しています。

そこで私は信条を調べたのですが、そのような記述(つまり神は存在論的に一人である)がないのです。

ただ「神はお一人であり、三つの人格がある」としか述べていません。

その場合、次の2つの解釈が可能です。

(1)神は「存在論的に一人であり、同時に、三つの人格がある」
(2)神は「存在論的に三人であり、契約的に一人である」

そこで私は(2)のほうが正しいのではないか、と問題提起したわけです。

なぜならば、聖書は「神は似姿として男女を創造された。その男女は一体となる。」と啓示しているからです。

男女はそれぞれ別の人格ですが、結婚を通じて一体となり「一人の法人」になります。

そして、これが「神の似姿」であると。つまり、「神とはこのように別の人格であるが、契約を通じて一体となっている」と解釈できるのです。

この私の議論に対して、伝統的である(と言われている)解釈では異端らしいのです。

そこで、私は異端であるならどうして異端なのかを示してほしいと主張しているのです。

私は、自分の立場が誤謬であるならば、潔く自分の考えを捨てます。

こだわりは一切ありません。

聖書が究極の権威であり、判断基準なのですから、それに従います。

メールをいただいたときに、強く感じたのは「三神一体」という言葉から受ける違和感です。

「三位一体」なら違和感はありません。

「三人格一体」でも違和感はありません。

しかし、「三神一体」は強い違和感を覚えます。

なぜなのかと考えてしまいました。

もしかして「三人格」を「三神」と明言することは、聖霊が望んでおられないのではないかと思いました。

というわけで、現在の私は、「三神一体」までは主張できません。

しかし「契約による一体説」は実質的に「三神一体」を主張しているわけです。

正直なところ、自分にとって「この問題についてはペンディングにするしかないのか」と思っています。

神が示してくださるのを待ちます。

 

 

2018年11月19日



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