主の祈り2
「私たちに毎日必要なものを今日も与えてください」
「私たちに負債のある人々を私たちが赦したように私たちの負債もお赦しください」
「私たちを誘惑に陥れないでください。かえって私たちを悪からお救いください」
1.
「私たちに毎日必要なものを今日も与えてください」
主の祈りは、まず神のことから始まる。そして、その後に日々の糧についての祈りがくる。これは「われわれに必要な日々の糧、お金、健康その他が与えられるのは、神の御名があがめられ、御国が到来し、御心が地上で行われるためである」ということを示している。
これは次の個所によって補強される。
そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6・31-33)
この世界で一番大切なものは「神の国とその義」である。
その一番大切なものを実現するために、衣食住が存在する。
この優先順位を間違うことは、自分の人生の無駄遣いである。
一度しかない人生を優先順位の間違いのために棒に振る人が多い。
イエスを誘惑したサタンはこの点でイエスを罠にかけた。
「この石をパンに変えなさい」
つまり、「正義とか神の国とかきれいごとを言っても、食っていかなければどうしようもないじゃないか。まず食い扶持を確保しなさい。神の国はその後でいい」と。
サタンの主要な誘惑は、「まず衣食住、その次に正義」である。
これこそ共産主義の罠である。
マルクスは「下部構造が上部構造を規定する」と述べた。
ドイツ観念論は「イデオロギーが存在を決定する」と述べたが、マルクスはそれをひっくり返して「存在がイデオロギーを決定する」と考えた。
彼の世界観は、「食っていけるかどうかが第一で、道徳とか宗教は物質的な生活を成立させるために払われる努力の副産物に過ぎない」というもの。
共産主義者は、荒野でのサタンの誘惑に負けた人々である。
聖書の教えは、契約主義である。
つまり、「契約を守れば、物質的にも祝福される」と。
「倫理が第一で、物質は倫理的な生活を成立させるために払われる努力の副産物に過ぎない」と。
神との関係が確立していなければ、物質的な生活を維持することができなくなると。
エリヤの時代、民が契約に逆らったため、日照りが続き、飢餓が広まりつつあった。
エリヤはまず「壊れた祭壇を築きなおした」。
そして祈ると、雨が再び降り始めた。
神との正しい関係を復活させない限り、いくら努力しても、物質的な生活はもとに戻らない。
「祈り?ははは。この世界は物質オンリーで成立しているのだ。科学的な力を利用すれば、宗教なんていらない」という共産主義者の国ソ連は70年で崩壊した。
サタンの誘惑に乗る人々は、自滅する。
2.
「私たちに負債のある人々を私たちが赦したように私たちの負債もお赦しください」
われわれは、毎日神に対して負債を背負いながら生きている。
神の法を破るときに負債が増える。
しかし、自分で自分を裁き、悔い改め、イエス・キリストによる代償の原理を適用すれば、その負債は帳消しになる。
バランスシートの右側にマイナスの項目があっても、左側に「イエス・キリストによる支払い」を記入すれば、バランスはゼロになる。
しかし、いくらイエス・キリストによる支払いを記入しても、バランスがゼロにならない場合がある。
それは、自分に対して負債がある人を責め続けるときである。
さばいてはいけません。さばかれないためです。(マタイ7・1)
いつまでも憎しみや恨みを抱いていれば、自分が犯した罪に対する神からの呪いも消えずに残り、積みあがる。
そして、それがある日、裁きとなって自分を襲う。
他人を許さない人は、実は自分を苦しめているのである。
中国人や韓国人がいつまでもいつまでも日本を責め続けているが、結果として、それによって自分への呪いが積み上がり、裁きとなって返ってくる。
だから、中国や韓国が繁栄することなどありえないのである。
しかし、彼らは聖書の霊的な原理を知らないか無視しているため、日本の過去をほじくり返して世界中で中傷を繰り返し、自ら墓穴を掘っている。
人を恨む人は、いつまでたっても成功しない。
しかし、それが自分の不寛容にあると気付かないので、最後は自暴自棄になり、やってはならないことをして自滅する。
(愛は)人のした悪を思わない(1コリント13・5)
ようするに、恨む人には愛はない。
人に対して寛容であれば、自分も寛容に扱われる。
人に対して憐れみがない人は、憐れみなく裁かれる。
あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。(ヤコブ2・13)
自分が人にやったことは、自分に「そのまま」返ってくる。
「情けは人のためならず」ということわざは真理である。
3.
「私たちを誘惑に陥れないでください。かえって私たちを悪からお救いください」
誘惑は、超自然的なものである。
それは、霊的な世界と直結している。
だから自然現象と考える唯物論者はおろかである。
「まさか、私がこんなことをするはずがないじゃないですか」とたかをくくっていると、自分でも信じられないことをする。
だから、一番誘惑に陥りやすい人は、傲慢な人である。
神の助けを拒み、自分の力だけで人生をやっていけると考えている人間ほど、悪魔にとって誘惑のターゲットになりやすい。
「俺の人生、絶好調!」と思っている人のところに悪魔はさっとやってきて、浮かれている足を払う。
用心深く傲慢にならないように注意している人は、防御が堅いので、サタンは近づけない。
知恵のある人は、調子がよくても悪くても心が一定している。
中国人や韓国人とネットで議論するとわかるのは、彼らはお調子者であるということ。
GDPで日本を抜いた(中国の統計は出鱈目なので本当はどうかわからない)とたんに、中国人は日本をさげすみ始めた。
韓国も事大主義だから中国の側に寄り添いはじめ、いっしょになって日本をたたき始めた。
もし知恵があれば、経済が絶好調のときこそ、謙遜になり、用心しようと努力するものだが、舞い上がった。
サタンの格好の餌食である。
舞い上がっている人間は隙だらけである。
傲慢になって神を捨てているから、神もサタンの攻撃から守られない。
その結果、致命的な失敗をする。
われわれが毎日、「誘惑に陥れないでください」と祈るのは、自分が次の瞬間どうなるかわからないからである。
われわれの力を超える超自然的な存在がわれわれを狙っているからである。
「神の前に謙遜になって、誘惑から守られるように祈らなければ自分でも信じがたいことをする存在である」と知っているからである。
ある牧師が信徒のほとんどを散らした。
その前に彼はこう言い始めた。
「私が伝道しなければ、今あなたがたはここにはいないのですから」と。
神の恵みを自分の手柄にした。
傲慢になって神の恵みを忘れることは、滅びの前兆である。
2016年6月26日
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