聖書的な歴史哲学 by カルケドン財団
歴史とは何か。過去の何百万もの出来事や人々の中から、特定の出来事がどうして重視され、選択されるのか?一方を強調し、他方を軽視する場合、それは、いかなる根拠によるのか。そしてある出来事が歴史になるのは、いつか。教会史家も世俗の歴史家も同様に、歴史を、非人格的な自然の力の産物と解釈する。その結果、神とキリストが、過去から抽出されるだけでなく、現在からも遠く引き離される。
聖書的な歴史哲学は、明確かつ決定的に現代の信仰と対立している。聖書的哲学の基本は、創造の教えである。この教義は、歴史にとって大きな意味を含んでいる。聖書の神は、万物の創造主である。人は神とその法に反抗しており、人の基本的な問題は罪にある。歴史とは、キリストと反キリストとの間の戦いであり、人間の基本的なニーズは、イエス・キリストの血による贖いと、それに続くキリストにある命、神の法の下での生活である。人間に対する訴状はもはや不要であり、命の許可証こそが人が必要とするものなのである。
あらゆる非聖書的な歴史哲学は、最終的に人間と歴史の両方を破壊する。最初は、永遠が与えるものよりも優れた意味を歴史に与えようと努めるが、結局のところ、歴史からあらゆる人間的意味を奪い、人から人間らしさを奪う。神と神の命令に逆らう教えを受け入れる人は、神ではなく、自分自身を傷つける。歴史に対するキリストの王権を否定し、己の王国を確立しようとする人は、自らを奴隷の身分に落とす。
正統派のクリスチャンにとって、歴史は永遠によって決定される。歴史の意味と栄光は、派生的なものである。ヒューマニズムの歴史は、ガタガタ揺れ動く弱々しい梯子であり、いかなる土台もなく、終いには虚無に至るが、神的な歴史は、十全たる意味と目的に基づき、人に栄光に満ちた相続と運命を与える。
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2019年2月27日
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