1.
こちらの説明をよく読みもせず、誤解したままで「予定論は努力を否定する」という人がいる。
つまり「どんなに伝道しても、予定されていないと、救われないなら、私の両親は救われないのか」と。
それに対して私は繰り返しこう言ってきたはずだ。
「ご両親が最後まで福音を拒否されるかどうかはわからないじゃないですか」と。
神は誰が救われて、誰が滅びるか、ご存じであるが、人間にはわからない。
だから、努力する。
しかも、家族の一人が信仰に入ると、家族全員に祝福が及ぶと聖書では繰り返し記されている。
神は、その家族を他の家族と別格に扱われる。
なぜなら、信者でない夫は妻によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れているわけです。ところが、現に聖いのです。(1コリント7・14)
夫または妻が聖められていれば、信者でない配偶者も、子供も聖い。
私は、家族は、契約的に統一体として扱われていると信じる。
つまり、家族は、一人の人間なのである。
家族は運命共同体であり、それゆえに、一人のメンバーによって、全体が聖められる。
家族の一人のメンバーに流れる血は、家族全員に流れる。
もちろん、家族の中で積極的に救いを拒絶する者は救いからもれる。
しかし、その反逆的なメンバーが最後まで拒否するかどうかどうやってわかるのだろうか。
われわれは有限な存在なので、努力すべきだ。
祈ってそのメンバーが救われるように求めるべきだ。
2.
私にはいくつか体験がある。
札幌で幼稚園の友達だった人の家族が東京に住んでいることが分かり、ある日、向こうから電話があって、家に招かれた。
私は、家族に伝道した。
幼馴染を含め、2人救われた。
彼らの祖父が病気で倒れた。幼馴染は、祖父の病床で私がプレゼントした聖書を読んであげた。実は、若いころ、教会に通っていたという。その後、教会から離れ、聖書からも離れていた。
不思議な導きで救いの御言葉を聞いたのだ。
神は、祖父の信仰を覚えておられた。そして、孫を通じて信仰を復活してくださった。
もう一人は、インターネットを通じて救われたAさんである。
伝道によって、イエスを救い主として受け入れた。
実は、幼いころに、私のような人と出会って、知りたいことを教えてほしいと祈っていたそうだ。
私はその人と今でも面会したことがない。
「面会すると緊張して聞きたいことが聞けなくなるので、電話だけでいろいろと質問できる人を送ってください」と祈っていたという。
もうかれこれ14年も電話だけの連絡が続いている。
5年ほどまえに、お母さんが亡くなった。
田舎で、キリスト教とまったく関係がない日々を過ごしていた。
脳卒中で倒れたので、近所の花屋に花を届けてもらった。
そのことを亡くなるまでずっと喜んでおられたという。
最近聞いた話では、若いころ、外国人のホームステイ先となり、彼らに連れられて教会に通ったことがあるという。
讃美歌を歌った思い出を楽しそうに話しておられた。
また、Aさんが子供のころ、お母さんが『十戒』という映画を見せたという。
これらのことから、私は、お母さんが救われたと考えている。
私には直接に話す機会はなかったが、お母さんが亡くなる前に教会で聞いた福音を思い出すか何らかの方法でチャンスが与えられたと考えている。
「家族によって聖められている」と聖書に言われている以上、救いはノンクリスチャンしかいない家族よりも、クリスチャンがいる家族のほうがはるかに大きな恵みの中にいるはずだから。
神様は、選ばれた人々を救うために、家族を用いてくださる。
3.
神は、クリスチャン家庭を格別に祝福してくださる。
救われたメンバーは、その家族を聖める働きをする。
つまり、一人救われれば、家族も救われる。
何らかの形で、残りの家族に祝福が及び、福音を「容易に」受け入れるチャンスが与えられる。
人は信仰によって救われるのだから、信仰が与えられるはずだ。
私は救いを知らない家族のメンバーが亡くなった場合、そのメンバーが地獄に行ったとは考えられない。
ある知り合いの教会員は、福音を聞いたことのない父親が病床で意識のないままにうわごとの中で「聖霊の恵みにより」というのを聞いた。
まったくキリスト教の知識のない人がなぜ聖霊の恵みについて語るのか。
私にはこれも「クリスチャンのメンバーによって家族にもたらされる格別の恵み」の表れに思える。