テサロニケの教会員たちの携挙は、クリスチャンの初穂だった。
つまり、クリスチャンも同じ体験をするという「保証」である。
聖書において保証とは「頭金」「手付金」である。
まず最初に携挙されたのは、イエスご自身であった。
こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。(使徒の働き1・9)
イエスは復活の初穂であると同時に、昇天の初穂でもあられた。
紀元70年頃にあった携挙では、旧約時代のクリスチャンたちや、テサロニケ教会の会員たち、そして、おそらく他のクリスチャンたちも、この昇天に与った。
イエスと彼らは頭金なので、彼らが携挙されたことは、われわれも将来携挙されることが保証されている。
おそらく、われわれにも同じことが起きるのだろう。
われわれが肉体を離れると同時に「御霊のからだ」への復活が起きる。
そして、その御霊のからだは物理的に昇天する。
なぜこのように言えるかというと、「クリスチャンは死なない」からである。
もし霊だけの存在になったら「肉体は死んだ」ということになってしまう。
「霊的な死も肉体的な死もイエスが身代わりに背負ってくださった」と信じるのが信仰である。
だから、われわれには、一瞬でも死ぬようなことはないのである。
霊においても、肉においても、死はわれわれと無縁である。
だから、われわれがこの血肉の体を脱ぎ捨てたら、即座に御霊のからだが与えられ、そして、昇天するのである。