無用な呪いを避けるために
最近の業者は、老人に対してだましを行う。
私の父母が注文した工事の費用を業者が高くふっかけてきた。
パソコンに余計なものが追加されていた。
素人だからわからないだろうということで、購入させたのだろう。
聖書において、神は「老人の前では起立せよ」といわれた。
敬老は、神の法の中心的なテーマの一つである。
聖書法を学ぶ利点は、自分に呪いを招かないで済む点である。
クリスチャンでも聖書法を知らないと、無用な呪いを招く。
たとえば、教職者への侮蔑とか。
長老(教会指導者)に対しては尊敬を払うべきだが、教えに携わっている長老に対しては二重の尊敬を払えと書いてある。
聖書で尊敬を払うということは、文字通りの尊敬であるだけではなく、金銭的な支援の意味もある。
父母を敬え、という基本律法には、老人や、聖書を教える長老への金銭的支援も含まれる。
だから、社会の中で若者が豊かで、老人や教職者が貧困であえいでいるという状況があるならば、その社会はまもなく死ぬということだ。
なぜならば、「父母を敬え。あなたの寿命が延びるために」とあるからだ。
老人や教職者に対する軽視や侮辱は、自分の寿命の短縮に密接に関係する。
聖書において寿命は祝福の主要な要素のひとつであるから、寿命が短くなるということは、生活全般において祝福が少なくなると同義である。
だから、寿命が短くなるならば、それは、その他の面でもだめになっている証拠だ。
老人をだまして高いものを売りつけてやろうなどというあの業者などは、自分の身に呪いを招く馬鹿である。
聖書を信じないから、自分の寿命を短くし、生活全般でのろいを受けている理由がわからない。
いくら熱心に働いても、自分の財布からすぐにお金が逃げていく。
この世界は神によって支配されているから、自分が聖書の法に反して行ったすべてのことについてマイナスな結果がついてくる。
われわれが聖書を読んでそれを守るように努力していることは、実は幸いなことなのである。
2012年9月17日
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