本物のクリスチャンの態度


1.

支えてくださっている皆様、御国の働きにご参加くださり感謝いたします。

1981年、大学時代に「神の法に帰る以外に世界に解決はない」と気づいてから38年経ちました。

当時、まだ、同じ問題意識を持つラッシュドゥーニーについて知りませんでした。

『カルヴァンとカルビニストたち』(渡辺公平師)の著書を読んで彼について触れられていたのは知っていましたが、まだ興味がありませんでした。

学生時代の友人の牧師T氏も同じ問題意識を与えられており、彼が先に神学校に入り「律法の重要性」について気づき、卒論でラッシュドゥーニーについて触れていたのを記憶しています。

1986年に渡米した際に、長老教会で彼の著書『Institutes of Biblical Law』を見かけ、「あ、T氏が参考文献に挙げていた人だ」と気づいて、買って帰りました。

卒論を書く段階でこの著作を開けてびっくりしました。

自分の問題意識とピタリと合っていたからです。

単なる律法の解説書ではなく、律法の世界観が解説されていました。

そして、「律法こそが、現代世界を導く基準である」と記されていました。

神学校入学時にS牧師からプレゼントされた本も開くと、同じようなことが書かれていました。

それはグレッグ・バーンセンの『Theonomy in Christian Ethics』でした。

InstitutesとこのTheonomyは再建主義の3大主要著書の2冊であると後で知りました。

S牧師は再建主義者ではなく、ヴァン・ティル主義者だったので、まったく偶然にこれらの著書が私の手に入ったのです。

これが神の導きでなくて何でしょうか。

卒業後、大和で伝道しているときに、毎日10ページずつ読んでいたときに、あのT氏から連絡がありました。

Sというアメリカの牧師がInstitutesの勉強会を開くから参加しませんか、との誘いでした。

T氏と同じ本を同じころに読んでいたのも奇遇ですが、S氏が勉強会を開くことになったというのも奇遇でした。

神が私に「蒔く種」を与えてくださったのでしょう。

この38年間、私の問題意識は一貫しています。

混迷を極める現代世界において、神は「私の法が基準だ」と言われていると思います。

一筋の光を与えてくださり、選ばれた人々が暗闇の中で迷うことのないように配慮してくださっている。

ですから、私にとって、人の支持を得られるかどうかは問題ではなく、自分の行動を左右する基準にはなりませんでした。

今後も、御国に帰るときまで、この立場を貫く所存です。

アメリカからやってくる流行に左右されず、「不動の御言葉」にのみ従うことが、ベストであると主張し続けるつもりです。

2.

「神学ではない。人が救われなければ意味がない。教会が成長しなければ意味がない」との教えがはびこっていますが、偽預言者の惑わしです。

聖書の一字一句が大切なのです。

天地が滅んでも、御言葉は廃れることは絶対にありません。

聖書に記されている神の言葉、神の法、神の教えに厳密に準拠しないキリスト教は、キリスト教ではありません。

「○○教団ではこういう教えだから」は、私たちの行動の根拠にはなりません。

その教団の教えが、しっかりとした聖書的な裏付けがあればよいですが、そうではなく、ディスペンセーション主義やリベラル神学などに根拠があるならば、潔く捨てるべきです。

それで教団を追い出されても仕方がありません。

私たちは、人に従うために生まれてきたのではなく、神の言葉に従うために生まれてきたのですから。

人生の成功・失敗は「御言葉に忠実であったかどうか」によって決まります。

それ以外の基準は、すべて惑わしであり、私たちにとっていかなる意味もありません。

たとえ1000億円の財産を残したとしても、御言葉に忠実でなければ、無意味です。

だから、行動する前に「まず聖書は何を言っているのか」について「厳密に」調べる必要があるのです。

間違った教えを持ちながら、行動しても、神に喜ばれることはありません。

地球上でのほんの少しの「ずれ」が、1億光年先の空間では何億光年の開きになります。

ディスペンセーション主義に騙されて「律法は今日無効だ」と信じるならば、人生のほとんどを「的外れ」なことのために無駄にすることになります。

3.

「今、成果が出ているのか」について尋ねる人が多いのですが、愚問です。

そういうことに興味がある人は「不信仰」なのです。

「誰も受け入れなく、支持者もいないが、御言葉がこのように教えているので、これこれをしている」という人が本当の信仰者です。

人間の評価がいかに当てにならないかは、信仰によって歩んでいる人なら誰でもが日々体験することでしょう。

ただ御言葉にすがりつき、人の意見をすべて無視するくらいでなければ、まともな活動はできません。

そういう意味で私たちは傲慢と呼ばれることが多いかもしれません。

しかし、本当に傲慢なのは、聖書的ではない意見を押しつけてくる相手なのです。

「人を人とも思わない」というのはまずいですが、礼儀を尽くしつつ、異なる意見の人々を遠ざけるのは、罪ではありません。

最終的には、すべての人が御言葉の前に跪きます。

それが、天国においてか、地獄においてかの違いはありますが、全員が最終的に神に服従することになります。

御言葉に関しては頑固になるべきです。

その他については柔軟に。

これが、本物のクリスチャンの態度だと思います。

 

 

2019年2月27日



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