「それでも私は信じます!」と言おう


1.

精神的にトラブルをかかえていた頃の自分は、問題を見ると「ダメかもしれない」と思った。

すぐに人と比較して落ち込んでいた。

「あの人はスポーツで全国大会に出た。自分には何もない」と。

分野の違うことで比較しても意味がない。

自分の得意な分野以外で活躍する人を見て比較しても無意味である。

2.

クリスチャンになったら「世の人とはまったく異なる神を信じるようになった」のである。

真の神を信じるようになったのである。

ということは、考え方も法律も全部変わったのである。

世の人と同じ考え方や行動規則をしていたら意味がない。

真の神を拝むようになったのなら、その神の世界に没入し、そこで通用する思考や行動で自分を制御しなければならない。

そうしないと「偶像礼拝者のまま」である。

3.

クリスチャンになったら「世界の王」になったのである。

王なのになぜ世界を支配できないのか。

イエスは「天地における一切の権威を与えられた」と宣言された。

イエスにおいて、われわれも「天地における一切の権威を与えられ」ている。

あるクリスチャンから「政治に関する発言をやめろ」と言われたことがある。

このクリスチャンは、「政治についてはイエスやクリスチャンは権威ではない」と言っているのである。

違う。

「天地における『一切の』権威を与えられた」のである。

イエスは、あらゆる分野における王である。

クリスチャンも、あらゆる分野において支配しなければならない。

4.

「自然派」と呼ばれる運動がヒッピーやニューエイジ運動において現れた。

ヌーディスト運動などもそうである。

「文明こそが癌だ。自然に帰れ」と。

なんでもナチュラルがいいと。

これは、反キリストの運動である。

なぜならば、人間も自然も堕落しているからである。

キリストが復活され、彼にあって復活した人々が、人間と自然を回復するのが、キリスト教の使命であり、歴史である。

つまり「復活の力による文明建設」こそが、クリスチャンの使命である。

「自然の流れにまかせて行動し、考えろ」と悪魔は誘惑してくる。

人間は、理性においても精神においても堕落しているので、自然の流れにまかせて思考すると、自己破壊に向かうのである。「俺はもうだめだ」「俺なんていないほうが世界にとってよい」と。

抵抗しなければならない。

「いや!私はイエス・キリストにあって復活している。復活の力によって勝利するぞ!」と。

マイナスな言葉は「フック」である。

マイナスな言葉を発したら、自分を引っ張るための「フック」を提供したことになる。

それにサタンがロープをかけて、「絶望」という名の池の中に引きずり込んでいく。

マイナスな環境が現れたら「それでも私は信じます!」と言おう。

 

 

2018年6月24日



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