すべての人は宗教的なのである
(1)
よく科学と信仰を対立概念に置く人がいるが、間違いだ。
科学は、信仰を支える道具である。
科学自体で信仰に対立できない。
なぜならば、人間は不可避的に信仰的動物であり、信仰なしには生きていけない。
たとえば、ある無神論者が会社を立ち上げたとする。
従業員を雇う必要があるので、面接をした。
なぜ面接をするのか。
筆記試験や書類審査でなぜ不十分なのか。
なぜならば、人柄を見たいからだ。
誠実か、仕事に熱心か、社会性はあるか、強調性は、社風に合うか?
これらはデータだけではわからない。
デジタルに変換できる情報だけでは人柄はわからない。
われわれは、最終的にアナログな情報に頼る。
われわれは、総合的知識を得なければやっていけない存在である。
無神論者でも、科学的知識だけではない直観的知識に依存する。
直観的知覚は、科学の方法ではない。
科学的方法とは、論証的である。
たとえば、実験データを得るとする。
これは帰納法的認識論に基づく。演繹的ではない。
だから経験科学的である。
思い込みに頼るのではなく、データを見て、できるだけ客観性を得ようとする。
そのデータから関数を作りだし、法則を見つける。
しかし、帰納法的な方法だけでは科学も成立しない。
実験データだけでは何も結論できない。
実験データを他のデータと比較したり、検討するという「総合的検証」が必要になる。
どうやっても、人間は直観を用いずには生活できない。
だから、すべての人は宗教的なのである。
すべての人は、帰納法と演繹法を組み合わせて知覚している。
(2)
聖書は、演繹法の世界である。
神の言葉は絶対だという原理があり、それを基準に様々な分野に適用して知識を得る。
「神の法には、人を殺す者を処刑せよと書いてある。だから、死刑制度は存続させなければならない」と聖書信仰の人は考える。
自然宗教の人は、そう考えない。
「神の法にどうあろうと、データを集めて、死刑制度の国では犯罪率が低いのか、犯罪を抑止する効果があるのかなど総合的に考えなければならない」という。
聖書信仰の人は、「自然秩序は被造物であり、神が創造されたものであり、自然の法則は神の僕、神の道具でしかない。だから、神の啓示法のほうが自然法よりも優越している」と考える。
自然宗教の人は、「自然秩序は被造物ではなく、むしろ、神の創造以前にすでにあったものだ。だから、神の法を自然法に優越させてはならない。人間の自然理性を聖書啓示よりも優先させるべきだ」と考える。
もちろん、自然宗教とは、エバの信仰である。
エバは、サタンに騙されて「それを食べても死にません」という言葉を、神の啓示である「食べてはならない」よりも優先した。
自然秩序、自然法、自然理性…
この自然主義こそが、人間の罪の本質である。
人間は、自然主義を採用したために堕落して、サタンの奴隷に落ちたのである。
神の啓示が究極か、それとも自然が究極か。
この二つのいずれを選択するかによって、クリスチャンであるか、ノンクリスチャンかを判別できる。
後者を選択する人は、実質的に神を主と考えていない。だから、契約から追い出される。
神の国とは神が主になっている国であるから、追い出される。
(3)
クリスチャンは、演繹法だけでやっていると考える人がいるが間違い。
クリスチャンを「聖書を絶対として、科学を無視する人々」と規定することほど無知はない。
われわれは、科学は信仰の体系を支える道具であると考えている。
科学を自立したものとは考えない。
既述のように、ノンクリスチャンですら、科学を自分の宗教体系を補強するために用いているだけで、科学だけでやっている人など存在しない。
だいたいにおいてノンクリスチャンは、学校で学んで身につけた宗教、つまり、ヒューマニズムを補強するために科学を利用している。
ヒューマニズムが狡猾なのは、「ヒューマニズムは宗教を超越したものである」と教えるところにある。
だから、学校教育を経た人はみな自分を宗教家と見ていない。
客観的中立の知性を持つ者と誤解している。
どっぷりと宗教に浸かっているにもかかわらず。
2012年12月27日
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