リベラル神学は贖罪を不要とする似非キリスト教である
再生されていない人々の思考は、「生まれながらの人間は、理性的であり、善意に溢れている。理性的であれば、世界は善意によって支配されうまくいく」である。
保守派の人々でも、同じ考えであり、この点で左翼と変わらない。
つまり「全的堕落」という教義が欠落しているのである。
クリスチャンと自称する人々の中にもこのような人々はいて、リベラル神学を構成している。
西洋思想の根幹を形成しているギリシア思想(ヘレニズム)は、人間の全的堕落を前提とせず、問題を「物質」に置く。
すなわち、「霊は健全だが、肉が悪い」と考える。
しかし、そのもう一つの根幹である聖書思想(ヘブライズム)は、人間は全的に堕落しており、問題は「物質」だけではなく「霊」にも存在すると考える。
それゆえ、解決は「贖いを通じての人間の全的復活・再生」にしかない、物質も霊もどちらも堕落しているので、生まれ変わってまったく新しい人間になるしか方法はないとする。
「クリスチャンになる必要はない。このままでも頑張れば問題は解決する」というプライドが、近代の合理主義の根本に存在する。
合理主義者は、正統派神学を唱えたヴァン・ティルを攻撃した。
ヴァン・ティルは「合理主義者は、理性の堕落を信じていないので合理的ではなく、間違った宗教を信じている非合理主義者である」と唱えた。
しかし、ギリシャの思想の前提は、「誰も喜んで悪を行う者はいない」である[60]。「理性と徳には関連性がある」は、依然として合理主義の隠れた前提として存在する。合理主義の前提には有効性が乏しいが、それによって合理主義が人気を失う結果とはならなかった。道徳と知性の優位性に関する安易な仮定は、例えば、コルネリウス・ヴァン・ティルを口汚く罵った多くの批評家が持っていた顕著な特徴であった。彼らは、日常的にきわめて感情的な悪態と虐待に耽っていた。しかし、合理主義は、神話の領域であり、自らを自分自身の神とする(創世記3・5)人々が抱く、古くからの傲慢な信念の領域である。合理主義者は、自律と理性の力に対する己の信念に基づき、非常に危険な神話に固執する。スタンリー・フィッシュが指摘したように、自由主義は「理性の地位は明白である」という前提に依存している[61]。それは実際に、合理主義者が同意するところのものであるが、それに同意しない人々もいるに違いない。いかなる形であれ、理性の究極性を前提とすることは、誰にとっても非合理的な思い込みである。ヴァン・ティルがよく述べたように、合理主義は、最後に非合理主義に変わる。
Rushdoony, R. J., Van Til and the Limits of Reason (No.1044-1051). Chalcedon/Ross House Books. Kindle 版。
2018年12月20日
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