再臨は2度ある


再臨が2度あるというと、奇妙に思えるかもしれない。

しかし、律法において、聖めは2度行わなければならないと書いてある。


その者は三日目と七日目に、汚れをきよめる水で罪の身をきよめ、きよくならなければならない。三日目と七日目に罪の身をきよめないなら、きよくなることはできない。
身のきよい人が、それを汚れた者に三日目と七日目に振りかければ、その者は七日目に、罪をきよめられる。その者は、衣服を洗い、水を浴びる。その者は夕方にはきよくなる。
あなたがたは七日間、宿営の外にとどまれ。あなたがたでも、あなたがたの捕虜でも、人を殺した者、あるいは刺し殺された者に触れた者はだれでも、三日目と七日目に罪の身をきよめなければならない。(民数記19・12、19、31・19)

紀元70年に法的な聖めがあった。

キリストは、世界の所有権を宣言された。

「私には天地においていっさいの権威が与えられました」と。

しかし、現実を見れば、キリストの支配は局所的である。

これは、世界の歴史を通じて漸進的に広がるからである。

実際の聖めは徐々である。

それは、モーセとヨシュアに神が命令されたのと同じ。

神は彼らに「カナンを征服せよ。それはあなたの手に与えたから」と言われた。

ここで、カナンの土地の法的所有権がイスラエルに移った。

しかし、そのままでは実際的な所有者ではない。

戦わなければならない。

その後、ヨシュアを通じてカナンの土地は徐々に占領された。

それと同じように、キリストの主権は徐々に広がる。

19世紀までは、キリストの王国は世界に広がっていったのだ。

しかし、イルミナティの影響力がキリスト教の影響力を凌駕した。

イルミナティは、教会の中に傀儡を送り込んで各教派を一つ一つひっくり返していった。

福音派もひっくり返された。

知らず知らずのうちに、イルミナティの聖書(ウェストコットとホート)を使い、イルミナティの神学(ディスペンセーショナリズム)を信じるようになった。

しかし、これは覆すことができる。

われわれが自覚的に、悪魔との関係を切ればいいのだ。

ディスペンセーショナリズムから離れる。

ウェストコットとホートの聖書から離れ、ビザンチン写本(1900年間多数派だった)に基づく聖書に切り替えればいい。

アルミニウス主義の神学を捨てて、カルヴァン主義を採用する。

そうすれば、われわれは、神の国の拡大、つまり、世界の聖化のために役立つようになる。

今のままのキリスト教ならば、貴重な人生とお金と時間の無駄遣いである。

われわれは、世界政府に誘導されているのだ!!!

われわれが本来の聖めの活動に参加すれば、世界の回復は進み、諸国民の弟子化が進む。

この枠組みに入るならば、イエスの大宣教命令を成就することになり、天において報いは豊かにある。

入らなければ、報いはなく、場合によっては、地獄に落ちる。

二重の聖めは、イスラエルにおける結婚の習慣においても現れている。

マリアは、ヨセフと結婚していたが、同棲してないときにイエスを生んだ。

当時の結婚は、結婚関係に入っても同棲しなかった。

つまり、結婚は法的段階と、実際的段階に分かれていた。

だから、イエスは、結婚の中で生まれたが、処女から生まれたのである。

こうする以外に律法を守ることはできなかった。

婚外妊娠は罪である。

しかし、同棲してしまったら、キリストが新人類であるという証拠にならない。

ヨセフとマリアの間に生まれたことになってしまう。

イエスは、アダムの子孫であってはならない。なぜならば、アダムから生まれることは、アダム契約の中に入っていることになるから。

アダム契約の中に入っているならば、生まれながらにしてみ怒りを受けるべき子