「地を従えよ」の命令はキリストにおいて成就した2



イスラエルに渡された律法の二枚の板は、契約の箱の中に収められていた。

律法の二枚の板は、そのままむき出しの状態で渡されると人間は死ぬ。

律法の要求は、絶対だからだ。

嘘をついた瞬間に絶命する。

と述べたが、では「十戒を渡された直後に牛の像を拝んだイスラエル人たちがレビ人によって処刑されたのはなぜか?」との疑問が起きるかもしれない。

民はモーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」
それで、アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい。」
そこで、民はみな、その耳にある金の耳輪をはずして、アロンのところに持って来た。
彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」と言った。
アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼ばわって言った。「あすは主への祭りである。」
そこで、翌日、朝早く彼らは全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供えた。そして、民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた。…
モーセは、民が乱れており、アロンが彼らをほうっておいたので、敵の物笑いとなっているのを見た。
そこでモーセは宿営の入口に立って「だれでも、主につく者は、私のところに」と言った。するとレビ族がみな、彼のところに集まった。
そこで、モーセは彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。」
レビ族は、モーセのことばどおりに行なった。その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。(出エジプト記32章)

それは「意図的な契約違反」だからだ。

罪を犯した人々は、悔い改める意思を持っていなかった。

すでに出エジプト20章において「偶像作ってそれを拝んではならない」との戒めを与えられていたにもかかわらず、「私たちに先立って行く神を、造ってください」とアロンに嘆願した。

契約に留まることができる人は「悔い改める人」である。

悔い改める意思がない人は、契約から排除される。

だから、「出来心」で犯す罪と「計画的」罪とは180度扱いが違う。

イエス・キリストの十字架は、悔い改める用意がある人々のためのものであって、確信犯的に罪を犯す人のためのものではない。

だから、律法そのものを拒否する罪は赦されない。

「律法の時代は終わった。われわれは律法から自由だ。律法を守る必要はない」というディスペンセーショナリズムの教えは異端であり、契約から排除される罪である。

「救われるために」律法を守る必要はない

のであって、

「御心を行うために」律法を守る必要はない

ではない。

イエスを信じたら無条件で救われるという教えは間違いである。

われわれは、契約の民として契約の主に服従する姿勢を保つことができなければならない。

それができないならば、滅びる。

意図的な契約違反を執拗かつ無反省に続けるならば、滅びる。

信仰義認の原型であるアブラハム契約ですら、まず神はアブラハムに「服従の姿勢を保て」と命令された。