邪悪な人間とは手を切る以外のことをしてはならない


田中宇氏までも「尖閣問題で中国と対立するな」と言い出した。

http://tanakanews.com/121011japan.htm

理由は、「経済的に打撃を受ける」からと。

われわれは、どんなにヤクザの手を借りたい時があっても、借りたらだめだと知っている。

なぜならば、弱みにつけこんでどんどん食いついてくるから。

手を切れなくなる。

同じことだ。

立ち退きを拒む住民に機銃掃射したり、ローラーで轢き殺すようなヤクザ国家と手を結んで経済的な利益を得ようなどと考えてはならない。

絶対に後々ひどいことが待っているから。

サタンは、利用するために利益を提供する。

われわれはみな、人生の中で何度かサタンが提供してくれるごちそうと出くわす。

それに手をつけたら一巻の終わりだ。

イエスは、荒野で四十日四十夜断食をしておられたときに、サタンの誘惑に遭われた。

サタンはこのように誘惑した。


あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。(マタイ4・3)

イエスが空腹であるのを承知しての誘惑である。

イエスはこう答えられた。

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」と書いてある。」(マタイ4・4)

これは申命記の神のみ言葉である。

それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。(申命記8・3)

イスラエルの民は荒野で周りに何もない中を進んでいた。

人間的に頼るものが何もない中で、絶望した者たちは滅び、信仰のある者にはマナが天から降ってきた。

人々は、マナを食べて生き延びた。

われわれの活動に関心を持つ人々は多くいた。

しかし、いざ具体的に加わるとなると怖気づいた。

様々な妨害が入るからだ。

Aさんは、奥さんの父親である牧師の教会で副牧師をしていた。

われわれの活動に関心をもったが、父親からわれわれの運動とかかわるなと言われた。

人間関係を失いたくないのと、金銭的な不安から身を引いた。

「聖書的かどうか」で判断するのではなく、「食っていけるか」で判断すると、道を誤る。

多くの人は、われわれとつながると、福音派から追い出されると怯えている。

荒野でのサタンの誘惑に乗ったのである。

空腹のときに、自分が砂漠の中にいて、周りに何もなければ、「あー、おしまいだ!」と絶望するだろう。

実際イスラエルの一部はこの言葉を吐いた。

神に頼らずに、自分の気持ちに頼ったのである。

自分の不信仰の心を御言葉に優先したのである。

本物のクリスチャンは、「自分の自然な気持ちは絶望だが、私は神に『絶望してはならない。わたしを信じなさい』と命令されている。そうだ。神に信頼して求めよう」と考える。

しかし、荒野で滅んだ人々は、サタンに取りつかれた人々に騙されて「もうおしまいだ!」と自分の不信仰のほうを選択した。

こういう不信仰は、次に不道徳な選択肢が現れるとそれに飛びつく。

「アーメン、ソーメン言っても、食っていけなければしょうがないではないか。私は、生きていくために○○をする。これが倫理的にやばいと知っているけど、仕方がない」と。

サタンはイエスにこのことをした。

「神の子さん、あなたは今空腹だ。自分の全能の力を使って目の前の石をパンに変えて食べたらどうだ。」と。

これに負けて、イエスが

「ああ、神の御言葉なんてどうでもいい。空腹なのだから、自分の全能の力を利用して石をパンに変えて食べてしまおう」と言ったら、イエスは救い主の資格を失っただろう。

自分が罪人である者が他人の罪をあがなうことはできない。

イエスは、こう考えられた。

「たとえ自分に奇跡を起こす力があるとしても、それを神の御心と無関係に行使してはならない。神の許可なしに何もしてはならない」と。

神からの助けを待てない人はだめだ。

ぎりぎりの試練はあるだろう。

そのぎりぎりに追い詰められたときに御言葉を選択できるか。

それとも、サタンの誘惑に負けて、不道徳な選択するか。

商売とか金儲けのために中国と手を結ぶことは不道徳な選択だ。

チベットやウイグルで180万人を虐殺してきた共産党政権と手を結ぶことは、荒野で石をパンに変えることだ。

石をパンに変えて、食べても、それは腹の中で石に戻るだろう。

中国の仲間になることは、中国の業を行うことに等しい。

邪悪な人間とは手を切る以外のことをしてはならない。

 

 

2012年10月13日



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