約束が現実化するためには、その約束を信じなければならない


クリスチャンは、この世界を変えることができる。

なぜならば、この世界は、キリストの所有であり、キリストにつながるクリスチャンもキリストの御体の一部として所有者だからである。

それゆえ、われわれには、世界を動かす権利がある。

問題は、その権利をいかに行使するかである。

私はディスペンセーショナリストの親戚から会うたびに、「世界は変わらない。政治について語るのをやめろ」と言われてきた。

もちろん、サタンが世界の王であり、所有者であると認める人々にとってみれば、クリスチャンが世界を変えられるはずはない。

しかし、聖書は、「すべてのものを、私たちに恵んでくださ」ると言っている。


「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ローマ8・32)

この親戚は、私の実情をよく知っている。

私は、普通の人よりもはるかに「持っていな」い。

この活動を始めてから、サタンの総攻撃を受けてきたので、持つべきものすら持てない。

同世代の人々と比較したら「まったく」持っていない。

所有に関して、実情は悲惨である。

だから「クリスチャンが世界を所有している?笑わせるな」と言いたくなるのもわかる。

「まず、おまえがそんな状態でどうするんだ」と言われても返す言葉はない。

しかし、世界の支配者であると記した聖書はイエスについて何と言っているか。

すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」(マタイ8・20)

「枕する所もない」=ホームレスである。

イエスはホームレスであった。

所有に関して、イエスはゼロであった。

最低限の生活すらできなかった。

そのホームレスを世界の王という。

聖書は神の霊感によって記されているから、無謬である。

これは、何を意味するか。

すなわち、現状で判断するな、ということである。

見た目で判断するな。

実績で判断するな。

われわれの義務は、「御言葉だけを見る」ということである。

つまり、信仰によって見るのである。

「もっぱら信仰の目だけで世界を見る」ということができない人は、資産や実績、業績、出身学校などで人を見る。

こんなことクリスチャンでなくてもやっている。

つまり、クリスチャンである意味がない。

クリスチャンがクリスチャンである意味とは、「信仰だけで見る」ことができるということである。

しかし、ディスペンセーショナリズムが教会に入ってから、クリスチャンが信仰以外で人を評価するようになった。

「世界を見なさい。どんどん悪くなっている。これは再臨が近いからだ」と。

イエスが世界の王であり、所有者であるという聖書の教えはどこに行った?

イエスは次のように言われた。

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。(マタイ28・18)

この御言葉をどう評価する?

答えられない。

「いや、それは、再臨の後に発揮されるのだ」と言うか。

では、この聖句はどう解釈するのか。

御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。(マタイ6・10)

「いや、それは再臨後のことを言っているのだ」と?

では、これはどうか。

今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。(ヨハネ12・31)

「今、この世を支配する者は追い出される」ということは、

すでにサタンはイエスの時代に追い出された!!!

今はサタンの時代ではない!!!

サタンは世界を支配する権威を失っている!!!

信仰の目で見るならば、イルミナティが世界を支配する時代ではない。

彼らが今いかに権力を持ち、富を持っていたとしても、それは、浮雲のようなものだ。

信仰によってわれわれが追い出せば、彼らは世界から出ていく。

われわれに権威があり、彼らにはない。

われわれが富を所有すべきであって、彼らが所有すべきではない。

クリスチャンこそが、この世界の実質的な権威と権力と富を独占すべきである。

クリスチャンがこの世界の王として立つ以外に、世界をエデンの園のような楽園に変えることは不可能である。

だから、信仰こそが大切なのだ。

現状を見てはならない。

実績を見てはならない。

ただ、御言葉の約束を見る。

それにしがみつくべきだ。

誰が何を言っても「私は世界の王です」と言えなければならない。

御言葉よりも現状を見て判断する人は、トマス型クリスチャンである。

トマスは、イエスが復活したことを信じなかった。

それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。(ヨハネ20・25)

このようなクリスチャンは、失格者である。

科学に頼って六日創造説を信じないクリスチャンも失格者である。

人間を疑うのはいい。

しかし、神を疑ってはならない。

人間の書物を疑ってもいい。

しかし、聖書を疑ってはならない。

なぜならば、神はわれわれの主権者だからだ。

こういう懐疑主義者のクリスチャンが心の病気になっても、当然であると言える。

土台が破壊されているからだ。

御言葉が土台にないクリスチャンが心が崩壊しやすいとしても当然である。

頼るものが聖書以外にあるクリスチャンは、砂漠で神を疑ったイスラエル人のように、滅びる。

約束の地に入ることはできない。

われわれが支配者になると聖書で約束されているのだから、その約束を信じなければならない。

われわれが政治も経済も教育もすべて支配しない限り、この世の地獄度はますます大きくなる。

実際、われわれが祈りだしてから、ブッシュ一族とロックフェラー一族による支配は終わった。

彼らのアメリカのナチス化、警察国家化は防がれている。

2012年から2013年に予定されていたイルミナティによる世界の完全支配も先送りになっている。

今では2020年だと言っている。

統一教会の文鮮明は「こんなはずじゃなかった!」と言って亡くなった。(幹部と知り合いのクリスチャンから聞いた。)

約束が現実化するためには、その約束を信じなければならない。

約束だけに頼って生活するという荒野の訓練を経ないクリスチャンには、約束の地に足を踏み入れることはできない。

つい昨日の夜のことなのだが偶然にある発見をして、これによって状況が劇的に変わる可能性がでてきた。

原理的に言えば巨大な力を引き込むことも可能である。

公表は確実になるまで避けたいので申し訳ないです。

どうかこの計画を悪魔が妨害しないように祈っていただきたい。

 

 

2015年8月29日



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