大崩壊した神の国の立て直しが必要である2


神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。(ローマ8・28−29)

神を愛し、神の国を求め、そのために生涯を捧げて活動する人だけのために「神はすべてのことを働かせて益としてくださる」。

過去のすべての損失を利益に変えたいならば、神を愛し、神の国を求め、そのために生涯を捧げて活動することである。

聖書では、「すべての人に神はすべてのことを働かせて益としてくださる」とは言われていない。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のために」とある。

神を愛さない人々が「全部利益になる」とは言えない。

だから、世俗の可能性思考は間違いである。

むしろ、聖書では、神を愛さない人々には「全部が不利益になる」と教えている。

神を愛さない人々が慈善を行っても、どんな善行を行っても、全部不利益になる。

なぜならば、慈善活動や善行に付随して発生する罪が、その人を責めるからである。

慈善活動をやっている最中に発生する「自己満足」「自己神化」「うぬぼれ」のようなものが、その慈善活動をご破算にする。

彼らの活動は、泥靴をはいたまま部屋を掃除する人のようなものである。

掃除する片っ端から汚していく。

ある人は「クリスチャンだって同じじゃないか。クリスチャンだってうぬぼれたり、偽善に走ることはあるだろう」というかもしれない。

神を愛するクリスチャンの場合、その「うぬぼれ」や「偽善」には、イエス・キリストの犠牲がある。

イエス・キリストがその刑罰を受けてくださるので、付随するすべての罪は帳消しになる。

しかし、ノンクリスチャンの場合、そのような犠牲がないため、その偽善や慢心はそのまま残るのである。

だから、善行を積めば積むほど罪が拡大する。

そのため、「やることなすことすべてが自分にとって有害になる」。

神を愛するクリスチャンの場合、付随する罪は帳消しになるだけではなく、善行は報いにカウントされる。

すべての善行は永遠の栄光となって返ってくる。

いや、自分が犯した罪すらも、益に変えられる。

神がそれを利益に変えてくださる。

だから、神を愛するクリスチャンにとって、すべてが利益である。

人生全体が利益である。

「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。」

すべてが「御子のかたちと同じ姿に」変わるために利用される。

人生で味わった失敗や不幸な出来事はすべて、キリストに似た者となるために利用される。

神はあらゆる体験をことごとくキリストに似た者にするために利用される。

「それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」

キリストが、神を愛するクリスチャンの中で長男となるためである。

キリストは、新人類の長子である。

われわれは、キリストの弟や妹である。

われわれは、キリストの弟や妹らしく、キリストと似た品性を持つように運命づけられている。

上品な家庭に育つと、兄から弟、妹にいたるまでだいたい上品である。

兄だけが上品で、弟や妹が下品ということはあまりない。

家庭が悪ければ、ほとんどの場合、構成メンバー全員が悪くなる。

神の家族において、長男であるキリストが聖ければ、弟や妹であるクリスチャンも聖くなる。

神はわれわれを家族のメンバーとして扱われ、キリストに似た品性を持つように訓練される。

だから、自分に起きた不幸や失敗もすべてわれわれの成長のために利用される。

全部利益になる。

神を愛する人々が、品性下劣なままでいるはずがないのである。

神は、聖くなるための訓練を必ずされるからである。

「実によって木を見分けなさい」とイエスは言われた。

どのような実を結んでいるかによって、人の本質はわかると。

だから、神を愛する人々が、ずっと罪を犯し続け、悔い改めもせず、傲慢で、非聖書的な教えを信じ、それを伝え続けるなどということはありえないのである。

必ず正しい教えに帰り、神の国のために活動するはずである。

もしいつまでもいつまでも聖書的な活動を批判し続けるならば、それらの人々は、そもそも神を愛していないのであり、生まれ変わっていないのである。

 

 

2015年12月12日



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