聖書の桃源郷(もしくは天国)観
桃源郷の思想は世界中にあるが、聖書のそれはまったく違う。
神は、アダムをエデンの園に住まわせられた。
その場所は、城壁で囲われた都市であった。
黙示録ではエデンの園が新しいエルサレムとして表現されている。
エデンの園や新エルサレムなど、聖書における桃源郷は、城壁に守られた都市なのである。
われわれの理想郷とは、神が外敵から守ってくださる場所である。
なぜ神が外敵から守ってくださるかというと、神と契約を結んでいるからである。
どのような契約かというと、「われわれが神の民であり、神がわれわれの神である」という契約。
つまり、神と民とが運命共同体、有機体、人体の関係にある契約。
神はわれわれをご自身の体として扱ってくださる。
クリスチャンになるということは、この運命共同体に加わることを意味する。
クリスチャンになれば高い城壁に囲われた都市の中に住むことができ、神ご自身がわれわれを守ってくださる。
この桃源郷の別の表現がノアの箱舟である。
周りが水で滅亡した中を、ノアの箱舟の中に入った人々と動物だけが守られた。
これは、イエス・キリストによる救いを象徴する。
イエス・キリストを信じて神の契約の中に入った人々は、滅びからまぬかれる。
このように、聖書において桃源郷とは契約なのである。
だから、桃源郷を何かこの地上とは無関係なものと考えてはならない。
ディスペンセーショナリズムでは、天国とは雲の上にあるものというイメージがあるが、聖書ではそのように言われていない。
契約があるところ、どこでも天国である。
イエス・キリストを主として受け入れる契約を結んだ人々、つまり、クリスチャンがいるところ、どこでも天国である。
そして、そのクリスチャンが聖書に基づいて支配している領域、家族や職場、職権、会社、団体なども、天国である。
イエス・キリストが主として支配する領域すべてが天国であり、桃源郷である。
だから、天国とは、この地上で入るものであって、死後に入るものではない。
イエスの弟子たちには「御国の門の鍵」が与えられた。
つまり、「門は現世にある」→「御国は現世で入る」ということである。
死後でない限り天国には入れない、というのではなく、このわれわれの生きている世界において周りのすべてのものを天国の中に「入れなければならない」のである。
創世記の「地を従えよ」との命令は「地上を天国に変えろ」と同義である。
われわれが御言葉に従って統治するすべての領域が天国=桃源郷である。
クリスチャンの「死」とは、われわれに割り当てられた「地を従え」る活動が終了し、休むことを意味する。
神が六日で世界を創造され、七日目に休まれたのと同じように、われわれは生涯の中で自分の周りに天国を広げ、最後に休息に入る。
この働きは世代を通じて行う必要があるので、われわれは天国の拡大のために次世代を育てなければならない。
世代を経るごとに天国は世界において拡大していなければならない。
だから、教育がある。
教育の基本的な意味は、天国の拡大である。
家族を持ち、子孫を増やすのもこの目的のためである。
世俗的な桃源郷やディスペンセーショナリズムの天国の概念を捨てて、聖書的なそれを採用すべきである。
2012年10月7日
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