死後クリスチャンにはからだが与えられるか


<Q>
O.クルマンについて、ネットで検索してみても、詳しい情報がほとんど見つかりません。

キリスト教では、「クリスチャンは死後即天国に行く」とする考えと、「いや、クリスチャンは死後、《眠りの状態》と言われる無活動の状態に入り、最後の審判の復活の時までその状態が続く」とする考えがあります。

O.クルマンは「霊魂の不滅か 死者の復活か」という書物で、その問題について詳しく論じているようですが、このO.クルマンという人は、どういう神学者なのですか?

バルトなどとは一線を画しているようですが・・・。

かなり長命だったようですね。

<A>
オスカー・クルマンが論じたのは、「ギリシア思想の魂の不滅性」と「聖書の復活論」の対立についてであったようです。


魂の不滅性を信じる人々ですら、パウロの希望を共有していないかった。すなわち、神が創造された世界のあらゆる部分を含む新しい創造の奇跡への信仰である。魂の不滅性を信じていたギリシア人は他のいかなる民族よりも、キリスト教の復活の教説を受け入れることに困難を覚えていたかもしれない。紀元150年、ユスチノス(『対話』80)は、「死人からの復活はない。死後ただちに魂は天に昇る」という人々について触れている。ここに明らかなコントラストが見られる。
「魂の不滅か新約聖書の死人の復活か」という疑問に対する答えは明確だ。偉大な哲学者ソクラテスやプラトンの教えは、新約聖書のそれと調和することは絶対にない。
http://www.religion-online.org/showchapter.asp?title=1115&C=1219

彼の著作の一覧を見ると、このテーマを扱っているのがこのThe Immortality of the Soul or the Resurrection of the Body: The Witness of the New Testament(魂の不滅性か体のよみがえりか:新約聖書の証言)しかないように思えます。

彼が、「クリスチャンは死後即天国に行く」とする考えと「いや、クリスチャンは死後、《眠りの状態》と言われる無活動の状態に入り、最後の審判の復活の時までその状態が続く」とする考えについて扱ったかどうかは不明です。

ただし、Derek Ouelletteという人によると、クルマンはCHRIST AND TIME THE PRIMITIVE CHRISTAIN CONCEPTION OF TIME AND HISTORYにおいて、「すでに、しかし、まだ」(Already/Not Yet)の聖書的原理を強調したそうです。

この「すでに、しかし、まだ」の原理とは、イエスは「すでに」御国を開始され、「すでに」われわれの周りにあるが、「しかし」、再臨において完成するまでは「まだ」完全ではない、とする原理です。
http://covenantoflove.net/tag/oscar-cullmann/

この原理では、魂の復活はすでにあったのです。

パウロによれば、イエスを信じる人々は、復活したのであり、新しい創造である。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント5・17)

われわれは、イエスを信じたときに、魂において復活した。

からだのよみがえりについては、パウロは、このように述べています。

血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。(1コリント15・44、52)

このラッパとともに起きるよみがえりは、すでに紀元1世紀に成就しました。

眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(1テサロニケ4・13-17)

「生き残っている私たち」とは誰でしょうか。

テサロニケの人々が生きていた当時の人々でしょう。

パウロは、テサロニケの人々に向けて慰めの言葉を述べた。だから、からだのよみがえりはすでに紀元1世紀にあったと考えなければならない。

しかも、聖書では、イエスの復活とともに、旧約の聖徒たちのからだも復活したと証言している。

また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。
そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都にはいって多くの人に現われた。(マタイ27・52-53)

つまり、「すでに、しかし、まだ」の原理では、魂においてもからだにおいても復活はすでにあったとされる。

この原理をクルマンが強調したというDerek Ouelletteの情報が正しければ、クルマンも復活はすでにあったと考えていたということになります。

プレ・ミレ(前千年王国説)は、御国は再臨の後に現れ、復活も再臨が起きるまで存在しないと考えますから、今の時代は「邪悪な時代」「サタンの時代」「命のない時代」であり、聖書が主張する「すでに御国と復活の時代」という教えと反します。

個人的終末(つまり死)については、プレ・ミレによれば、クリスチャンが死ぬと魂が天に昇るのであって、再臨までは、復活しないままに天ですごすということになります。

しかし、上記のように、聖書は、はっきりと当時のクリスチャンは(イエスを信じたときに)魂において復活し、昇天と同時にからだが与えられたと述べているのですから、われわれの個人の終末についても、肉体を離れたら、御霊のからだが与えられると考えても当然といえるでしょう。

「すでに、しかし、まだ」の原理を強調したクルマンが、当然、この考え方を持っていたと推測することは可能です。

ただ、Wikipediaを見ると、ルター派の神学者であったクルマンは、エキュメニズムの推進者で、ローマ・カトリックとの関係が深かったそうです。第2バチカン会議にもアドバイザーとして呼ばれました。イルミナティとのつながりを感じさせます。

生年が、25 February 1902, Strasbourg - 16 January 1999, Chamonixとなっていますので、97歳まで生きたようですね。
http://en.wikipedia.org/wiki/Oscar_Cullmann

 

 

2011年2月7日

 

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