やたらに裁判など開いてはならない


(1)
クリスチャンの間に、しばしば「昭和天皇に戦争責任があり、処刑すべきだった」という意見が見られる。

しかし、A級戦争犯罪を処罰する法律は事後法であり、開戦当時存在しなかったので、A級戦犯の日本人のいずれも処刑に値しない。

それゆえ、昭和天皇も処刑には値しない。

もし敵を殺戮することが死罪であるにしても、戦後裁判で連合軍は日本軍と同じように敵を殺戮したにもかかわらず、一人も処刑されていないので、同じ基準を適用して、昭和天皇も死刑に値しない。

(2)
クリスチャンの天皇批判は、戦勝国である連合国の目線で見ているからおかしくなっている。

裁判で裁くということは、神の代理者として裁くことであって、復讐ではない。

復讐のために裁判をするならば、その裁判は無効であるだけではなく、神の名を利用することであるから、裁判を開いた者の上に呪いがくだる。

裁判を開いた場合のほうが、裁判を開かない場合よりも、刑罰は重い。

もし裁判を開くならば、同じ法律で戦勝国も敗戦国も平等に裁く必要がある。

神が審判者である限り、両者の間にえこひいきがあってはならない。

連合国が開いた極東軍事裁判は、復讐裁判であるから、連合国側に呪いがかかっている。

神は、裁かれた側と同じ刑罰を裁いた側に加えようとしておられる。

繰り返すが、裁判を開くことは神の代理者となることを意味する

やたらに裁判など開いてはならないのである。

 

 

2012年8月25日



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