人間関係に鈍感な人は自分の首を絞めている


1.

レニングラード大学でロシア語研修を受けていたころ、定期的にモスクワ駐在員事務所に顔を出さねばならなかった。

ある日、所長に連れられて事務所が入っているソヴィンセンターの寿司屋に行った。

所長曰く「君の課の○○って変な奴だよな」と。

「え、どういうことですか?」

「あいつ、俺はモスクワ止まりでは終わりたくないと言っていたそうだぞ」

この○○という社員は、大学の先輩でかつて同じ研修生としてモスクワに駐在していた。

彼は、どうやら課長の前で、ソ連担当で終わりたくない、アメリカ担当になりたいと言ったらしい。

課長は、モスクワ出張の際に、彼の言葉を所長に伝えたのだ。

こういう発言をしたら「おしまい」である。

この業界では、ソ連担当よりもアメリカ担当のほうが格上である。

ソ連担当者がこの発言を聞いて気分を害するとなぜ判断できなかったのか。

さらに、こういう発言は必ずモスクワ事務所に伝わるとなぜ考えられなかったのか。

彼はその後、営業を外され、業務部に配置換えをされた。

もちろんのこと、モスクワ駐在員の話も消えた。

創業者の息子でもない限り、こんなことを組織の中で言ったら二度と浮上できない。

2.

世の中は広いようで狭い。

ロシア関係の世界では、どこかで知り合いに出会う。

通訳としてハバロフスクに出張した際に、新潟空港で会社時代の同僚と会った。

ニチメンでロシア語研修の講師をしていた際に、語学試験の受験生の中に大学の先輩がいた。

鈴木宗男事件の際に刑事訴追された人の中に大学の同級生がいた。

世間は広くても、業界は狭い。

事件や問題を起こして人間関係を崩すことは、その業界での将来を失うことに等しい。

「神を舐めない限り、人間を舐めていい」と考えるのは、愚か者。

どこで誰と出会い、誰と誰がつながっているかなど予測不能なので、できるだけ人には敬意をもって接するべき。

3.

私は、ディスペンセーション主義に汚染された教会の人に好かれようと思っていない。

嫌われようとも思わない。

いやむしろ、ディスペンセーション主義に騙されている人々に真実を示し、利益を提供してきた。

だから、もし私を恨んでいる人がいるなら、恨みを抱く対象を間違えていると言いたい。

現在は、かつてのクリスチャンの仲間とは関係が切れている。

というか、向こうがこちらを疑惑の目で見るので、付き合わないだけである。

福音派の指導者がセオノミーを危険視するので、あたかも異端であるかのように見られてきた。

こちらは何も間違ったことをしているわけではないので、異端に見られようが、毛嫌いされようがどうでもいい。

しかし、相手に無礼なことは一度もしていない。

お世話になった人には敬意を持っている。

4.

「俺は正しいことをしている。だから、間違った教えを信じている人に対して無礼なことをしてもいい」などと一度も考えたことはない。

こういうことをすれば、自分に必ず跳ね返ってくるから。

異端や異教を信じている人も、神の似姿である。

人間として無礼なことをすれば、それなりのものが返ってくる。

人間関係に鈍感な人は、自分の首を絞めている。

 

 

2018年10月6日



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