自然崇拝者と神崇拝者


「すべては、論理と科学によってチェックされるべきだ。」という考えは、ヒューマニズムである。

ヒューマニズムとは、「人間の理性が基準である」という信仰である。

これは、一種の自然主義であり、それゆえ、ギリシア思想にルーツを持つ。

このような立場は、聖書的ではない。

聖書は、「自然が基準ではなく神が基準」「自然法よりも神の法」「自然崇拝ではなく神崇拝」である。

現代の学校教育は、人類の歴史を通じて信じられてきた「自然は基準」との間違った信仰に立っている。

それゆえ、その教育を受けた現代人は、「自然崇拝者」であり、それゆえ、「神を自然理性で評価しなければならない」と主張する。

聖書的クリスチャンは、逆に「われわれは、自然を神の法によって評価すべきだ」とする。

だから、人間の科学的証明や論理を神の法によって評価する。

科学によって証明されたものを聖書によって評価する。

「進化論によれば六日創造説はおかしい」などと言っている牧師は、自然主義者であり、それゆえ、偶像礼拝者である。

だから、こんな教会に行くと自分も偶像礼拝者になる。

本当の牧師は、「進化論は何を言おうと、聖書は六日創造説を主張しているのだから私は六日創造説を信じる」という。

「そんなこと言ったら、世間からバカにされますよ」というだろうか。

神が世間をバカにしているのだから、いいじゃないか。


知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。(1コリント1・20)

神は、「この世を愚かなもの」と見ておられる。

進化論が何者だろうか。

神が進化論を「愚かなもの」とみられているのだから、われわれもそのように見よう。

それでいいじゃないか。世の中に受け入れられることを求める人は、「自然理性」を絶対としている人であり、偶像礼拝者である。

ボヘミアン・グローブで「フクロウ」が象徴する自然を崇拝しているホモ・セクシュアルと同類である。

 

 

2011年6月1日

 

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