赦される罪と赦されない罪
http://www.millnm.net/qanda3/56TABZBofbPww53796.htm
このページを見たのですが聖霊を冒涜する罪を犯したらもう地獄行きが決定するというところに
異論があるのですが
聖霊を冒涜する罪というのはたしかに文脈を無視してイエスの一部の言葉を引用すればそうとも読めますが
絶対に許されない罪があるということはキリストの十字架を信じればあらゆる全ての罪が赦されるという福音が否定されてしまいます。
文脈から解釈すれば聖霊は神への救いに導く案内人です。
それを否定することは悔い改めを拒むということ悔い改めを拒むということは救いを拒むということでもありそのような人は決して赦されません
それが文脈から解釈した聖霊を冒涜する罪なのだと思います。
まず、イエスの十字架を信じれば「あらゆるすべての」罪が赦されるということを聖書は主張していません。
イエスを主と告白している「クリスチャン」であっても、偶像礼拝をする者は、救われません。
「あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者――これが偶像礼拝者です、――こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。」(エペソ5・5)
神は悔い改めて立ち返る人を救われるのであって、悔い改めるつもりがない者、単なる口だけで真っ向から神に逆らい続ける者は神の国から除外されます。
神は寛容なお方ですから、偶像礼拝をしても、悔い改めて真剣に立ち返ろうとする人々を受け入れてくださいます。
しかし、頑迷に最後まで悔い改めない場合には、ユダのように滅びます。
ペテロは主を否定しましたが、後で悔い改めて立ち返ったので救われました。
このマタイの箇所「聖霊を冒涜する罪」は、パリサイ人が、イエスの御業を悪霊の業といったことに対する発言です。
「そのとき、悪霊につかれた、目も見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが彼をいやされたので、そのおしはものを言い、目も見えるようになった。群衆はみな驚いて言った。『この人は、ダビデの子なのだろうか。』これを聞いたパリサイ人は言った。『この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。』」(マタイ12・22−24)
イエスが悪霊につかれた人を解放された、この御業に対して「あれは悪霊によってやっているのだ」といった。
だから、ここからわかるのは、聖霊がやっている業を悪霊がやっているということが聖霊の冒涜であるとわかります。
このような罪は絶対に赦されないと断言されていますので、聖霊の御業を悪霊の仕業という人は、赦されない罪を犯したことになります。
人間の業を否定しても赦されます。なぜならば、人間は間違いを犯すので、人間の活動は批判の対象にしてもいいです。
しかし、聖書の文言に対する否定は、「悔い改めない罪」「聖書の著者である聖霊の促しに真っ向から逆らう罪」であり、救いは与えられません。
人間には、間違いがあります。罪を犯します。
この罪に対してどういう対応をしたのかで救いが決定します。
悔い改めるならば救われ、悔い改めないならば救われません。
聖霊の御業である聖書を否定する罪は、「悔い改めを拒む罪」であり、聖霊を冒涜する罪であり、赦されない罪です。
2014年12月21日
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