イエス・キリストは、神と人との仲介者である。
しかし、ユダヤ教もカトリックもこの働きを無効にする。
1.ユダヤ教では、仲介者の必要はない。
2.カトリックでは、キリストではなく、カトリックの司教がこの役割を果たす。
1.ユダヤ教
ユダヤ教では、仲介の働きは不要である。1
紀元70年の神殿崩壊以来、神との仲介役を果たす祭司はいなくなった。
神殿では、祭司が契約の民の代表として犠牲をささげ、贖いを成し遂げたが、神殿が崩壊してからは、そのような役割が不要になり、祭司が消えた。
この問題の解決策として、ユダヤ教のラビたちは「神との仲介なしでも済む教え」を作った。
1913年から1946年まで英国のチーフ・ラビとして働いたジョセフ・ヘルツ博士は、著書The Authorized Daily Prayer Bookにおいて次のように述べた。
(ユダヤ教の教えによれば、)仲介が必要になるのは、救いを求める人間の手が神に届かない場合である。ユダヤ教は「人間は神に近づく努力をすることによってそのことが可能になる」という前提の上に立っている。そのため、神が人を救うためにやってくる必要はなく、かえって人間の発展の邪魔になる。
つまり、キリストは、不要であるだけではなく、邪魔なのである。
ユダヤ人は、きわめて反キリスト的である。
アメリカにおいて、公的な場において、イエスの御名を出す政治家は、公的にしろ私的にしろ、非難は免れない。
たとえば、1896年、ラビ・モカルは、クリーブランド大統領が神と人の仲介者について言及したことを問題視し、非難した。2
なぜならば「ユダヤ人は、人と神の仲介者を認めない」から。3
キリスト教とユダヤ教の間に妥協は存在しない。
イエスははっきりと「すべての人は、父と同じように、子も敬うべきである。子を敬わない人は、彼を送った父をも敬わない」と言われた。(ヨハネ5・23)
結局、ユダヤ人にとっての神とは、聖書の神ではない。
聖書の神とは、イエスの父である。
ユダヤ人はイエスを拒絶するので、イエスを送られた神をも拒絶してきた。
2.カトリック
カトリック教会では、司祭が人と神の仲介者になる。
聖職者たちは、人と神を仲介するため、仲介者としてのイエスを邪魔者扱いする。
カトリックの司祭たちは、自ら主イエスであると主張し、神と人の仲介者としてふるまう。
司祭は、解釈者であり、神と人の仲介者であり、この務めをまさに聖職者の主要な働きとみなすべきである。(トレント会議信条)
聖書では、神と人の仲介者はイエスお一人である。
神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。(1テモテ2・5)
ユダヤ教は、仲介者の存在そのものを不要とみなし、カトリックは、司祭自らが仲介者になる。
結果として、ユダヤ教とカトリックは同じようにイエスを拒絶する。
1 Do We Need a Mediator?, Jews for Jesus (March 1, 1989), at http://jewsforjesus.org/publications/issues/6_4/mediator (quoting Steinberg, Milton, Basic Judaism, Harvest Book, Harcourt, Brace & World, Inc., NY, 1947, p. 57-58.).
2 NO MEDIATOR, SAYS THE RABBI.; A Protest Against the President's Thanksgiving
Proclamation, New York Times, November 19, 1896, available at http://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=9A02E5DD1331E033A2575AC1A9679D94679
ED7CF.
3 NO MEDIATOR, SAYS THE RABBI.; A Protest Against the President's Thanksgiving
Proclamation, New York Times, November 19, 1896, available at http://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=9A02E5DD1331E033A2575AC1A9679D94679
ED7CF.
(Edward Hendrie, Solving the Mystery of BABYLON THE GREAT, pp.144-145の要約)