契約の民と天地を結びつける働き3


(1)

伊勢神宮は、天地を結ぶ人の神社である。

阿波徳島も、天地を結ぶ場所。

両者とも東にある。

カバラ的には、半島や島の東側は西側よりも宗教的に高い。

世界も、ユーラシア大陸の極東に位置する日本は宗教的に高い。

だから、ユダヤ人が集まった。

しかし、伊勢神宮も、阿波徳島もそこが終点ではなかった。

阿波徳島の場合、剣山という至聖所があった。

剣山には、栗枝渡(くりしど)神社がある。もとは栗須戸(くりすと)神社と言った。

あの場所は、本当に高天原のような雰囲気を持つ場所であり、祖谷(いや)という村がある。

陸の孤島といってよい。

イヤとかユヤという地名は、もともとユダヤであったという話がある。

この高地一帯は、至聖所であろう。

そして、阿波が聖所。

神戸が庭。

(2)

至聖所(神)―聖所(神人)―庭(人)の並び方なのである。これは、

エデン山(神)―エデンの園(神人)―エデン(人)に対応している。

もともとエデンの園にアダムが住んでいたのは、アダムが神人=仲介者=祭司になるためだった。

アダムが失敗したので、仲介者が必要になった。

キリストが受肉した理由がここにある。

仲介者は、神だけでも人だけでもない。

神と人の両方の性質を備えていなければならない。

アダムが堕落したときに、聖霊が去った。

アダムの中には聖霊がいない。

だから仲介者になれない。

キリストは、神であり、同時に人である。(*)

キリストは、被造物の長になり、全被造物の責任を取って十字架において処刑された。

だから、天地の一切が神と和解した。

これは法的和解であり、実質的和解ではない。

あるアパートを購入し、法的に自分の所有になった状態と同じである。

そのアパートをクリスチャン向け宿舎にする計画があるが、人が住んでいて、クリスチャンになることも、立ち退きを拒むこともしている場合、それを自由にできないので実質的所有者ではない。

それと同じように、この被造世界もキリストの所有になったが、まだ法的所有である。

実際に所有するには、住民を説得してクリスチャンにする必要がある。

被造世界をキリストの実質的所有にするには、人をキリストの契約の中に入れなければならない。

キリストと契約を結ばせて新しい被造物となるべく再登録させる必要がある。

住民が全員クリスチャンになれば、所定の目的は達成したので、そのアパートは自分の実質的所有になる。

世界もキリストを主として礼拝するようになれば、実質的所有が実現する。

クリスチャンになることは、キリストの体の細胞になることである。

だから、われわれも聖所に住む者であり、祭司である。

世界が完成するのは、諸民族がすべてキリストの弟子となるときである。

日本人もアメリカ人も中国人も韓国人も、民族としてキリストの弟子となり、キリストのために働く民族になることである。

そうすれば、すべての民族が祭司になり、神人になる。

世界は聖所に変わる。

(3)

もともと地球は、天を至聖所とする聖所となるべく作られた。

天(神)―エデンの園(神人)―地(人)

これが、アダムによって

天(神)―エデンの園化した地(人)

に変わる計画であった。

つまり、天と地の結婚こそが、アダムが作られた目的であった。

神と被造物の契約的合一。

アダムは仲人として造られた。

失敗したアダムの代わりにこの計画が実現したのが、第2のアダム=キリストである。

キリストが十字架で贖いを達成されたときに、至聖所の幕が真っ二つに裂けたのは、神と被造物が結婚し、契約的に一つになったことのしるしである。

今は法的に世界は神と被造物が結婚して合一している。

それを実際化するのがわれわれの役目である。

(4)

阿波徳島が聖所であり、剣山が至聖所であれば、同じ聖所である伊勢神宮の至聖所は何か。

それが伊雑宮ではないか。

人体における至聖所である頭の部分が伊雑宮にある。

伊勢神宮の内宮にはT字型の十字架があるが、頭の部分はない。

それが伊雑宮にある。

八咫烏は、これを「首」と呼んでいる。

「首」は、将来、内宮のT字型の十字架と合体するという。

それで十字架が完成する。

伊雑宮(至聖所)―伊勢神宮(聖所)―籠神社(庭)

これは、すべて六芒星(△+▽=契約的合一を象徴)でつながれている。

どの神社にも六芒星のマークがある。

籠神社を出発した伊勢神宮のご神体(つまり十字架)は、最終的に伊雑宮に行き着くのだろう。

聖書において、頭はキリストの象徴であり、胴体は神の国の象徴である。

伊雑宮の「首」と伊勢神宮の「胴体」が合体することは、神と被造物の契約的合一を象徴しているのだろう。


(*)

ただし、アダムとキリストには相違点がある。

アダムは人であるが、中に聖霊が住んでいた神人。

キリストは神であるが、人の形をとっておられた神人。

もともと、本質的に、前者は人つまり被造物、後者は神つまり創造主。

だから、堕落前のアダムは崇拝対象にはならない。

キリストは本質的に神なので崇拝対象である。

 

 

2015年3月8日



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