三神論は異端である6
S氏は会った初期の頃から、N・T・ライトを信奉していました。ラッシュドゥーニーを批判しはじめたのは当然の結果だと思います。
もともとローマ・カトリックに傾く傾向があったのだと思います。
彼の異常な高ぶり、他者を排斥する姿勢は「頑固を貫く」資質にあったと思っています。
そして、数々の彼の思弁に対してはリフォームドの方々からきわめて妥当な批判がなされていると思います。
彼の契約論は結局のところ信仰義認を否定し、行為義認を取り入れているので、明らかな異端です。
ただ、私の場合、彼と混同していただきたくないのは、十分に反論が形成されていないことにあります。
はたして信条を形成した歴史的な教会が「存在論的に一」を信じていたのかどうかです。
というのも、今回、このテーマで調べてみてわかったことは、どの信条にもそれを示す文言がないということです。
そして、肝腎の「契約的合一をもって一神とする」という立場を否定するような議論は歴史的にはありませんでした。
つまり、教会は、この問題についてまだ目が開かれていないのではないかと。
ですから、先輩たちの考えを探るにしても、その形跡がないのですから、傲慢にも謙遜にもなりえません。
聖書に「明確に」「男女二人は一体となる」と述べ、「それは、神の似姿である」と述べているので、「神は存在論的に多であるが契約的に一である」と述べる聖書的根拠は十分にあります。
さらに、逆に「存在論的に一」であることが間違いであるのは、聖書がことさらに「父と子が互いに別の存在であることを繰り返し表現している」ことから明らかなように思えます。
しかも、聖書自体に「存在論的に一」としか解釈できない箇所が存在しない以上、これは非常に大きな問題になるのではないかと思います。
お言葉ですが、私はこのような主張をすることが傲慢の領域に入ったとは思えません。
「三神」を否定する三位一体論を奉じる既存の教会は、リフォームドも含め、「契約的合一」説に「合理的に」説明することが必要になるのではないかと思います。
私は「聖書及び信条に存在論的一としか解釈できない箇所が示されない限り」この議論には決着はつかないと思いますし、私の考えが神学的傲慢から来ていると判断されることも妥当ではないと思います。
あしからずお考えいただければ幸甚でございます。
2018年11月18日
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