聖書を読むと自然にプレ・ミレの解釈になるのか
聖書を読んでいくと自然とプレ・ミレの解釈になるのではないか、という疑問が生じることがある。
たしかに、誤解をしやすいかもしれない。
聖書は古典である。2000年前に記された。
古典を読む際に大切なのは、時代背景である。
それが記されたとき、どのような状況にあったのかを知らないと、正しく文章を理解できない。
たとえば、源氏物語を読む際に、当時の政治状況、社会状況、風習、人間関係などを理解できていないと、勝手に読み込みを行って間違った解釈をしてしまいがちである。
聖書も同じであり、書かれた時代背景がわからないと誤読する。
当時、イスラエルは裁きの直前にあった。
それは、アベルの血から、祭壇と神の家との間で殺されたザカリヤの血に至るまでの、世の初めから流されたすべての預言者の血の責任を、この時代が問われるためである。そうだ。わたしは言う。この時代はその責任を問われる。』
ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。(ルカ11・50、13・34)
宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあると話していた人々があった。するとイエスはこう言われた。『あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやってきます。』彼らは、イエスに質問して言った。『先生。それでは、これらのことは、いつ起こるのでしょう。これらのことが起こるときは、どんな前兆があるのでしょう。』・・・(ルカ21・5−7)
まことに、あなたがたに告げます。すべてのことが起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。(ルカ21・32)
まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。(マルコ13・30)
まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。(マタイ24・34)
2015年11月25日
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