神の法を意図的に破ることは神への挑戦である
掲示内容について、本当によく「私のことを言っているのですか?」と尋ねられるのだが、これまで繰り返してきたように、「私は内側から示されたことしか語らない」ようにしている。
預言の霊の働きなので、図星なのである。
ある会員の方から、タイミングが絶妙で自分の内面や生活のことを知っているのではないかと言われた。
まったく知らない。
どうやって他の地方に住んでいる方のことを知るのだろうか。
霊的な促しでのみ書いているということは、その霊が知っているということなのだ。
だからといって、私は預言を聖書と同列には置かない。
新約聖書において、あくまでも預言とは、「吟味を要する」ものである。
吟味とは「聖書によってチェックする」という意味である。
聖書と矛盾するようなことは絶対に言わないし、書かない。
また、聖書に照らしたメッセージは、たとえそれが反発を食らっても書く。
「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。
わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、その悪者は自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。
もしあなたが悪者に警告を与えても、彼がその悪を悔い改めず、その悪の道から立ち返らないなら、彼は自分の不義のために死ななければならない。しかしあなたは自分のいのちを救うことになる。
もし、正しい人がその正しい行ないをやめて、不正を行なうなら、わたしは彼の前につまずきを置く。彼は死ななければならない。それはあなたが彼に警告を与えなかったので、彼は自分の罪のために死に、彼が行なった正しい行ないも覚えられないのである。わたしは、彼の血の責任をあなたに問う。(エゼキエル3・17-20)
思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。(ガラテヤ6・7)
私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。(2コリント9・6)
イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す神。(イザヤ45・15)
2015年8月2日
ホーム