聖書のとおりに世界を定義し直すべきである
こうして、神は人に仰せられた。「見よ。主を恐れること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである。」(ヨブ記28・28)
教育の基本は「神を恐れるように躾けること」。
神を恐れ、悪から離れるように子供を躾けることに失敗した親は、自ら恥をかく。
むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる。(箴言29・15)
子供が非行に走っても罰することをしない親は、子供が成人したときに恥をかかされる。
新潟で9年間少女を監禁した男は、甘やかされたため、手がつけられない状態にあった。暴力をふるうので、母親がおびえて生活していた。
「人が人を裁いてよいのか。人を裁くのは神だけだ」というクリスチャンが多い。
人間は、神の代理人として地上に置かれたのである。
神の御心のとおりに裁くことがなければ、存在意義がない。
今日のように、裁判も教育も神と無関係に行われるようになった結果、どうなったか。
一人殺しても死刑にならない。二人以上殺すと死刑になる。
じゃあ、一人の犯罪者の命は、複数の遵法的な市民のそれと同じか、それよりも重いってこと?
聖書を捨てたので、正義の基準も失われた。
各人が知恵を出し合って「刑罰とはなにか」定義している。
その結果が「犯罪者を愛する社会」である。
こんな社会に持続可能性があるわけがない。
日本をまともにしたいなら、正義の基準を取り戻す以外にはない。
今の国際社会はイルミナティが支配しているので、国際社会からの「死刑廃止」の圧力は無視していい。
われわれは、聖書のとおりに世界を定義し直すべきである。
2018年7月26日
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